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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
     古今東西   千年視野                                          日本学問   世界光輝

                             麦・米・とうもろこしの世界史的意義(一)


                                      はじめに

 主要穀物と文明  人類に文明を与えたものは、茎に多量の粒を実らすイネ科植物である。イネ科植物が文明勃興の鍵になった。その主役となったイネ科植物とは、麦と米と、遅れて結実するとうもろこしである。米・麦・とうもろこしは、現在でも三大主要穀物である。

 現在ユーラシアで盛んに栽培されている穀類は、「イネ(インディカとジャポニカ)、コムギ(パンコムギ、マカロニコムギなど)、オオムギ、トウモロコシ、アワ、キビ、ヒエ、コウリャン、エンバク、ライムギ、シコクビエなど」であり、全てイネ科である。このうち、「イネ(インディカとジャポニカ)、コムギ、オオムギ、アワ、エンバク、ライムギ」がユーラシア起源であり、「あとはアフリカか新大陸起源」(佐藤洋一郎「序」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、7頁])である。つまり、現在の主要穀物である米・麦・とうもろこしのうち、米・麦はユーラシア原産であり、とうもろこしはアメリカ大陸原産である。「トウモロコシ、カボチャ、インゲンマメ、トウガラシ(メソアメリカ起源)・・ナンキンマメ、ジャガイモ(アンデス領域起源)、サツマイモ」は、「アメリカ大陸の先住民が努力してつくりだした」(高山智博「トウモロコシ農耕の起源」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、203頁])ものなのである。


 文明が「巨大化」するには、人口千万人ぐらいを扶養できる食物体系が必要であり、麦と米がユーラシア大陸でいち早くこれを実現した。とうもろこしがアメリカ大陸で大文明をもたらすのは、ユーラシアに数千年遅れることになる。つまり、最初に大文明を発生させた主要穀物は、麦と米であり、とうもろこしではなかった。これら穀物が、自然諸条件とともに農耕文明の開始・展開に相違を生じさせることになるのである。

                                
 人類と自然との関わり合いに関する法則の歴史的把握に関して、いずれを主体と見るかによって二つの大きな見方があった。

 西欧進歩史観 一つは、人類の活動を積極的に評価して、人類の自然への働きかけを主軸にみて、人類の歴史は進歩に向かっているという西欧進歩史観である。これは、「富と権力」を基軸とする文明を肯定的に受け止めて、豊かになることはいいことであり、国家は最高の理性などと評価して、メソポタミアに淵源する西欧文明こそが主導的文明とみる史観である。欧州人にとって、古代メソポタミアの人々は「最初の偉大な文明の創造者」にして、「われわれ自身に結びつく最も古い祖先」であり、「われわれの文化の源泉の一部をなしている」(ジャン・ボテロ、松島英子訳『バビロンとバイブル』法政大学出版局、2000年、エレヌ・モンサクレのまえがき)のである。

 西欧ブルジョア経済学を批判するマルクス経済学もまた根底においては西欧進歩史観に立脚していた。マルクスは、自然を客体とし、人間労働を主体として、労働者政党の独裁政権を樹立すれば、貧富の問題などはすべて解決するという幻想を与えすらしたのであった。出現したのは、人民を抑圧し、腐敗した労働者独裁政権であった。

 こうした西欧進歩史観やマルクスの唯物史観とは「ヨーロッパ中心主義」ともいうべきものであり、それへの批判として現れたのが、気候変動史観や生態史観などに基づくアジア中心主義であり(これについては、拙稿「A.G.フランクのヨーロッパ中心主義克服論に関連して」参照)、本稿は、始期の人類文明の中心は、ヨーロッパなどではなく、アジアであったことを明らかにし、従来の世界史・文明史・「経済史」などを学問的に根本的に書き替えることになるであろう。

 そこで取られる方法論は、気候や自然を重視するものであり、主体は人間ではなく、気候や自然ということになる。以下でこれを考察してみよう。
 
 気候変動史観 これは、気候変動と文明盛衰が関係していることを明らかにするものであり、E.Huntington,Civilization and Climate,Yale Univ.Press,1915、西岡秀雄『寒暖の歴史ー気候700年周期説』好学社、1949年、岸根卓郎『文明論ー文明興亡の法則』東洋経済新報社、1990年、村山節『文明の研究ー歴史の法則と未来予測』光村推古書院、1975年などによって提起され、安田喜憲氏によって「科学的批判」に耐えるものとなった。そこで、ここでは、安田氏の気候変動史観を瞥見してみよう。

 安田氏は、「地球の自転や公転の周期性、太陽活動の周期性、それらの影響を受けた気候変動の周期性は、地球上の生命体の周期的変化を引き起こし、生物リズムとして生物の進化をもたらした可能性が大きくなってきた」のであり、「人間もまた生物の一種である以上、この宇宙的・地球的リズムの影響から自由であるはずがない」と見る。氏は、生態にとどまらず、「人間の歴史や文明の盛衰は、宇宙的・地球的リズムと密接にかかわってきた可能性がますます大きくなってきた」(安田喜憲・小泉「あとがき」[『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期、朝倉書店、1995年、264頁])とするのである。

 そして、安田氏は、「人類の歴史がかぎりない未来に向かって直線的に発展するという発展史観のもとでは、歴史を発展させる原動力は生産力の向上と階級闘争」だったが、「気候と人類史のかかわりをみたとき、この歴史発展の常識はまったく当てはまらないことがわか」り、「文明を誕生させ」「新時代を切り開く」時は、「気候変動期に相当していること」が解明されたする(安田喜憲「地球のリズムと文明の周期性」[『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期、朝倉書店、1995年、249頁])。氏はマルクスを批判するのみならず、西岡・岸根らの700年周期説をも批判する。

 そして、氏は、「地球はおよそ90万年前以降10万年の周期で氷期と間氷期を交互に繰り返し、間氷期は1万5000ー2万年前の長さしかな」く、「その氷期から間氷期への移行は1万3000−1万2500年前に始ま」り、地球は「氷期から間氷期へと大きく移行を始めた」(同上書254−5頁)と、分析する。従って、現在は、「第四紀氷河時代(氷河時代の更新世[258万年前から約1万年前までの期間]と後氷期の完新世[約1万年前から現在]からなる)の中の一時的な温暖期である間氷期」となるのである。

 次には、氷河時代の更新世の末期から瞥見してみよう。

 7万年前の更新世の末期に最終氷期の寒冷期が始まり、「ヨーロッパをはじめとする各地で森林が衰退し、代わりに草原が広がる風景が見られるようにな」り、「北アジアでは乾燥化が進み、現在に近いステップ気候に変化し、同時に動物相もシカなどの草原棲の中型のものや、げっ歯類などの小動物が優勢になった」(白石典之「細石刃をもった環境激変期の狩人」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、98−9頁)])のである。狩猟民は、大型動物から中小型動物を追い求めだした。

 5万年前、「西・中央アジアと関連の強いムステリアン石器群」が登場し、獲物はますます「シカ類などの移動性の高い草原の中・小型獣」が中心となり、動物に合わせて移動生活を送」り、石材産地が形成され、細石刃の製作法として、ルヴァロワ石刃(三角片、縦長刃。槍先。北アジアのアルタイ山地からモンゴル北東部」。「種々の道具に加工しやすいこと・大量生産できること・携行便利)とルヴァロワ剥片(「円盤形石核よりの求心的な剥片剥離を行なうもの」)の二種が生じた(同上書99頁)。

 1万8000年前(最終氷期最寒期)以降の7000年間に、地球軌道要素(公転軌道の離心率、軌道上での地球の位置、および軌道平面に対する地軸の傾き)の周期的変動がうまく組み合わさり」、「太陽日射量が増加して、氷期の氷と雪を溶解」し、温暖化がもたらされた(小泉格「日本近海の海流系は脈動していた」62頁[『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期、朝倉書店、1995年])。

 この温暖化で「氷河は北に後退し、森林が範囲を拡大」し、ここに狩猟民は、「従来の植生を求めて移動するか」、或いは「新たな環境に適応するか」の選択を余儀なくされた。そこで、「斧やナイフとして利用でき、さらにこれを石核として様々な加工具や細石刃の生産を行なうことが可能」である両面調整石器を「携行して移動」しだした。人々は、細石刃石器群をもって、「西シベリアに比べ、森林の発達する北東アジア全域に拡大」した(白石典之「細石刃をもった環境激変期の狩人」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、101−2頁)])。だが、この「地球の気候が氷河時代から後氷期(地球温暖化の時代)へと大きく転換する地球環境の激動」期に、すっかり「大型哺乳動物が姿を消し、人類は食料危機に直面」し、人口も激減した(安田喜憲「新たな文明原理は危機の時代に生まれた」稲森和夫編『地球文明の危機』304ー5頁)。

 1万5千年前以降、寒冷と温暖が繰り返され、狩猟民は、そうした食料危機の中で、「野生のコムギや野生のイネの栽培化を始め」(安田喜憲「新たな文明原理は危機の時代に生まれた」稲森和夫編『地球文明の危機』305頁)、東アジア各地で土器が出現し(白石前掲論文[前掲書103頁])、細石刃文化は衰退した(白石前掲論文[前掲書105頁])。

 つまり、15000〜14000年前頃の最終間氷期の開始=プレニグレイシャル(pleniglacial)温暖期、14000〜13000年前頃のオールデストドリアス(Oldest Dryas、ドリアスとは「寒冷地を代表する植物」)寒冷期、13000〜12000年前頃のベーリング(Bolling)温暖期、12000〜11800年前頃のオルダードリアス(Older Dryas)寒冷期、11800〜11000年前頃のアレレード(Allerod)温暖期、11000〜10000年前頃のヤンガードリアス(Younger Dryas)寒冷期、10000〜9000年前頃のプレボレアル(Preboreal)温暖期、9000−8000年前頃のボレアル(Borea)寒冷期、8000−5000年前のアトランティック(Atlantic)温暖期(完新世の気候最温暖期[ヒプシサーマル]とも言う)、5000ー2500年前のサブボレアル(Subboreal)寒冷期、 2500年前-現在のサブアトランティック(Subatlantic)温暖期と、寒冷期と温暖期が繰り返されている(群馬大学地学セミナー「最新氷期末期以降に繰り返された寒冷期と温暖期の時代区分と名称」http://www.hayakawayukio.jp/seminar/nomenclature.html)。この様に、晩氷期には、「激しい寒暖・乾湿の変動に見舞われ」、「オルデスト・ドリアス期(寒冷期)→ベーリング期(温暖期)→オルダー・ドリアス期(寒冷期)→アレレード期(温暖期)→ヤンガー・ドリアス期(寒冷期)というように激しい寒暖・乾湿の変動が5千年の間に何回も繰り返された」(安田喜憲『長江文明の謎』青春出版社、2003年、64頁)のである。

 農業栽培開始をヤンガーアドリアス寒冷期の人口圧との関連から見ようとする研究は少なくないが、それのみでは、農耕栽培の必要性を理解できても、 「独自に食料生産をはじめた」地域が、メソポタミアの肥沃三日月地帯のみならず、中国、中米、南米アンデス地帯、合衆国東部(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年、140−1頁)、あるいはその他にも見られ、特に一部で人口増加を促進させ、領域国家を生み出した理由は明らかにできない。寒冷気候は、大文明の必要条件ではあっても、充分条件ではないのである。やはり、各地における人間と植物種、河川などの自然的条件との多様な具体的な関わり合いもまた考慮にいれなければならないのである。

 ここに、気候、植物相、地相などを総合的に考察し、そこに法則性を見出そうとする生態史観が登場する。

 生態史観 大貫良夫氏は、「地域の歴史は、その地域の自然的条件すなわち自然環境との関連でできあがってきた」が、人間が自然から食料を獲得しようとして自然を改変しようとすると、「人間と自然とのあいだには相互作用の関係ができあがる」とする。そして、世界各地に於ける「人間と自然」との「相互作用の歴史」こそが「生態の地域史」であると主張する(大貫良夫「生態の地域史」[川田順造・大貫良夫編『生態の地域史』山川出版社、2000年。3−4頁])。こう意味での生態史は、この時以前に日本にあったのであろうか。

 生態史観といえば、誰もが梅棹忠夫氏を想起するだろう。梅棹氏は、従来の進化史観では、「進化を一本道とかんがえ、何でもかでも、いずれは、おなじところへゆきつくとかんがえた」が、「実際の生物の進化は、けっしてそんなものではない」と主張する(梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、昭49年、99頁)。そこで、彼は、「人間の歴史の法則をしりたい」ので、「世界史を専攻したいといったら、歴史学には日本史、東洋史、西洋史などはあっても、世界史という分野はない、といわれ」、そこで「比較によって歴史における平行進化をみつけだすという方法」を案出し、「理論のモデルとして、生態学理論をおい」(梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、昭49年、97−8頁)たのであった。もとより、気候変動史観は念頭にはないが、気候と植物との関係は深いものとなる。

 梅棹氏は「血統的・系譜的」な「たとえ」ともいうべき「進化」論には反対して、「動物・植物の自然共同体の歴史を、ある程度法則的につかむことに成功」したサクセッション(遷移)理論(生態学者フレデリック・E・クレメンツ[1874〜1945]は草原→マツ林→カシ林というように、しだいに大型の、そして蓄積量の大きい群落におきかわってゆくことを解明)をモデル理論にしたいとする(梅棹忠夫『文明の生態史観』98頁)。つまり、彼は、「文化要素の系譜論は、森林でいえば、樹種の系統論であ」り、「生活様式論では、それが森林であるのかどうか、森林なら、どういう型の森林であるかが問題なのであって、樹種はなんでもよ」く、「もともと、落葉広葉樹林とか照葉樹林とかいっても、同じ種に属するものだけの純林などというものは、むしろすくな」く、「まじりあいながらも、しかも一つの生活様式ー生活共同体をつくっているところに、植物生態学が成立した」とする。そこで、梅棹氏は、「人間は植物と違うから、おなじようにゆくとはかぎらない」が、「うまくゆくかもしれない」し、「うまく成功すれば、それは一つの有力な歴史の見方ー史観でありうる」とし、これを生態史観としたのである(梅棹忠夫『文明の生態史観』98ー9頁)。

 このサクセッション現象は、「主体と環境との相互作用の結果がつもりつもって、まえの生活様式ではおさまりきれなくなって、つぎの生活様式にうつるという現象であ」り、「主体・環境系の自己運動」である((梅棹忠夫『文明の生態史観』100頁)。梅棹氏は、「歴史というものは、生態学的な見方をすれば、人間と土地との相互作用の進行のあと」であり、別言すれば、「主体環境系の自己運動のあと」であり、その進行の決定要因の主たるものは自然的要因だとする。その自然的要因の分布は、ケッペン以来の「気候型の分布」・「幾何学的な分布」ということになる(梅棹忠夫『文明の生態史観』182頁)。

 こうして、梅棹氏は、「科学の立場から人類の歴史を理解しようとするとき、生態学は、ひとつの効果ある方法を提供できる」と主張したが(247頁)、これを具体的に大文明成立・衰退史に適用することはなかった。

 それに対して、中島健一氏は河川に着目してこれを解明しようとした。彼は、「わが国における歴史研究の分野では、人間の歴史を明らかにしていくとき、その対応する自然条件とのかかわりの問題をことさら忌避してきた。歴史研究のなかに自然を介在させて理解しようとすると、たちまち、地理的決定論あるいは宿命論ときめつけ、批判され、斥けられてきた」と、従来の偏狭史観を批判する。そして、梅棹氏と同様に、進化史観は、「人間至上主義の、ひとりよがりの、物とり主義の思考方法であり、また、理性という名の“怪物”(R.デュボス)が神にかわって自然を支配しようとしてきた近代資本主義の価値観につらなる」と批判し、「その近代主義がいまや宇宙船・地球号を傷つけ、ほんらいのノーマルな自然を荒らし、ひいては人間の生命のいとなみまでも危険にさらしている」(『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、はしがき)と、警鐘をならす。

 中島氏は、「人間の歴史は地域性にふかく根ざした自然の歴史とともに離れがたく存在しつづけていく。文明がいかに進歩しようとも、自然の素材をはなれて、人間の生命のいとなみはない。人間そのものも、生物的自然の法則から逃れることはできない。それは生命あるものの自然・必然の世界である」として、「河川文明の繁栄と衰退との歴史的過程は、人間生存のための、自然システムの整合とそのバランスの重要」であり、「河川文明では、人間生存のための自然システムを技術的に整合しえたものは強大な支配権力であ」るが、「その自然システムのバランスを乱したものも、また、支配権力であり、支配的社会の体制的矛盾であった」と指摘する。

 これは、ウィットフォーゲルの灌漑専制権力論に符合するもので、専制権力による灌漑があったから農業栽培が可能になったとする立場である。だが、農業灌漑の基底は農民であり、その共同体であろう。灌漑のための専制権力が必要であるということは、いくつかある要因のなかの一つにしかすぎないということである。農業の内容こそが、大人口を維持し、専制権力を生み出した基底なのである。灌漑専制権力論のみでは、、ナイル川6695km、チグリス川1900k、ユーフラテス川2780km 、インダス川3180km、長江6380kmでは大(或いは中)文明が成立したが、アマゾン川6516km、ミシシッピー川6019km、コンゴ川4667km、ニジェール川3180km、エニセイ川5550km、メコン川4425kmなどでは大文明が成立しなかった理由を説明できない。この点、秋道智弥編『水と文明』(昭和堂、2010年)は、大文明以外の文明と河川の関係を取り上げていて、注目されよう。

 ただし、河川と文明との関係を見る上では、農業生産性の如何が重要となる。当時の農業生産性は、いかなる植物種をいかなる河川流域土地に栽培したかという二点の相互作用に大きく依存していた。つまり、河川流域の肥沃な土地に住む人類が、生産性が高くて、多大な人口を扶養するにたる植物種に遭遇したか否かが重要となるのである。従って、文明起源に関しては、河川流域の肥沃な大地に、一つの茎に多くの穂を結ぶイネ科植物を栽培することが重要となったのである。一つの茎から多くの食料を生み出すことは、多くの人口を飼育することを可能にする。ユーラシア大陸のメソポタミア川・ナイル川・「インダス川」流域などの肥沃な土地に栽培された小麦・大麦と稲が肥沃な土地に大人口・大文明を生み出したのである、それに対して、アメリカ大陸では、未だとうもろこしの生産性は低くかったために、大人口・大文明を生み出すのを遅らせたのである。また、アフリカ大陸のニジェール川流域では文明痕跡はあったようだが、その文明は、グラべりマ稲の栽培は確認できるが、生産性の高い麦と米を欠いていて、「内陸三角州のジャ(西端)やジェノ(東端)は、西暦7−8世紀には人口1万人程度の都市と呼べるほどの人口集中を実現した」にとどまり(竹沢尚一郎「ニジェール河ー西アフリカ・サバンナの水物語」[秋道智弥編『水と文明』昭和堂、2010年、255頁])、紀元前の時期に大人口・大文明を生み出すほどのものではなかったのである。
 
 その際留意するべきことは、麦や米が栽培されるようになっても、狩猟採集生活は維持され、多くの植物もまた栽培されていたということである。当時の人々は、いかなる植物が食用・薬用になるかに精通する「植物学者」なのでもあり、一族の生活をまもるために、生産力ある植物には着目し、、幾世代にもわたって品種改良に努めていったのはであるが、同時に多くの植物を採集し、動物もまた捕獲していたのである。

 西欧進歩史観の説くように、人間は主体的に自然に対峙し道具で自然に働きかけて進歩してきたと見ることと、気候変動史観、生態史観の如く、自然の一部として人間生活があるとみることの、いずれが根源的にして総合的な把握であろうか。古代の「植物学者」が最も生産性の高い植物に遭遇するか否かにおいては、彼らの積極性・感受性という意味での一定の主体性があることは否定できない。だからといって、人間が主体的に自然を改造したなどと見ることは到底できない。概して、気候・自然のリズムが人間生活のリズムを規定しており、人間生活が自然の奥深い影響を受けていることはいうまでもなく、人間を取り巻く自然・生態の特質が人間により大きな影響を与えていたのは明らかなのである。その意味では、後者の気候変動史観、生態史観は西欧進歩史観への有力な批判として有効なのである。

 
                      
                                    第一節 西アジア(オリエント)文明と小麦・大麦・米

 
人類最初の大文明はユーラシア大陸で起こり、このユーラシア文明は、西アジア(オリエント)文明、南アジア文明、東アジア文明から成り立っている。そして、西アジア(オリエント)文明は、周知の如くメソポタミア文明とエジプト文明からなっている。まず、メソポタミア文明の麦から考察してみよう。

                                  第一項  メソポタミア文明と小麦・大麦

                                            第一 小麦・大麦
                                    
                                      1 小麦の種類・起源 

 生物学的には、コムギはイネ科(Gramineae)のなかのイチゴツナギ亜科(Pooideae)、コムギ連(Triticeae)に属するコムギ属(Triticum)に含まれている一群の植物(二倍性[一粒系小麦]・四倍性[二粒系・チモフェービ系小麦]・六倍性[普通系小麦])」(森 直樹「染色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、37頁])である。一粒系コムギは2倍体の植物で難脱穀性を帯びているが、二粒系コムギは染色体の数が28(四倍体)の小麦の総称であり、エンマーコムギ、野生種パレスチナコムギ、チモフェービ系小麦が含まれている。もうすこし染色体数で小麦を細分すると、「コムギ属は一粒系(2倍種、2n=14)、二粒系(4倍種、2n=28)、チモフェービ系(4倍種、2n=28)と普通系(6倍種、2n=42)の4群」に大別される。さらに、「穂の形態や皮裸性の違い」で、約20種に分けられるが、この中で圧倒的に多いのが、普通小麦(パン小麦)、マカロニ小麦の二つである(瀬古秀文「小麦の起源と伝播」[長尾精一編『小麦の科学』朝倉書店、1995年、1頁])。

 このうち一粒系小麦が始祖と言われている。つまり、「コムギ属の基本染色体数を構成する7本の染色体セットであるゲノム(染色体を構成するDNA塩基配列)」の分析によって、栽培系小麦の起源は、「Aゲノムをもつ野生一粒系小麦(AA)から栽培一粒系小麦が分化」したものなのである。この野生一粒系小麦(AA)と野生のクサビ小麦(SS=BB)から「野生二粒系小麦(AABB)と野生チモフェービ系小麦(AAGG)が生じ」、さらに「それぞれの栽培型が分化」して、「栽培二粒系小麦(AABB)と野生のタルホ小麦(DD)から普通系小麦(AABBDD)が生じ」たことがわかっている(瀬古秀文「小麦の起源と伝播」同上書1頁)。野生一粒系小麦(AA、二倍性)から野生二粒系小麦(AABB、四倍性)までは、自然に生じていたのであり、それ以降が人為的栽培によるものとなる。

                                          2 西アジア地方 
 植生 小麦起源地の西アジアの自然環境について見てみると、地中海ーレバノン山脈ー西側(地中海沿岸)は、「夏期の高温乾燥と冬期の温暖降雨に特徴づけられるいわゆる地中海植生」であり、「常緑広葉ガシとビスタチア、オリーブ、イチヂクなどの潅木を主とした森林とな」り、「高度が高く雨量の多い山脈中には、マツ、イトスギ、レバノンスギなどの森が点在」し、上部を東西に伸びるタウロス山脈、イラン・イラク国境地帯にあるザグロス山脈では、「落葉性のペルシアナラを主体とした森林」が展開した。こうして、「チグリス、ユーフラテス両河中下流域の西、北、東」に、「カシ・ナラを主体とする森林に覆われ」、疎林帯・草原・砂漠帯が展開していた(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、127−8頁])。

 西アジアの植生は、この森林の外に疎林ー草原(ステップ)ー砂漠が広がっていて、ムギを中心とした農耕は、降水量およそ800−300mmの疎林ー草原にかけての地域でうまれたようだ。疎林・ステップの植生地帯には「河川や泉が多くみられ、遺跡が集中し」、これは狩猟や定住や植物管理など、「人間活動にとっても非常に利用しやすい環境」であるのみならず、「肥沃な沖積土壌も溜まりやすいので、農耕起源の舞台としては最高のお膳立てがそろ」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、73−4頁])う場所だった。

 麦起源地 この西アジアにおいて最も原始的なコムギである一粒系コムギの起源地としては、「レバノン山脈からタウロス山脈南麓までのレヴァント地域」および「ザグロス山脈南西麓を中心としたザグロス地域」の二つがある。資料によると、@「体系的な穀物利用の開始に関してはレヴァント地域でより早くその試みが行なわれ」、A花粉データ分析では「レヴァント地域でより早く起こ」ったことがわかっている(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、128−9頁]、佐藤洋一郎「序」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、5頁])。そのレヴァント地域は、北レヴァント(シリア)と南レヴァント(ヨルダン)に二分される。
 
 次に、その他の麦の起源地を見ると、オオムギの起源地は、「おそらくはこの『三日月』のなかに入るだろう」と言われ、六倍性の普通コムギの起源地は「それより東方、カスピ海の南岸からアルメニアにかけての地域にあるといわれ」る。エンバクの起源地も、「おおむねコムギとオオムギの起源地と類似しているが、それらとの大きな違いは、エンバクが雑草から出発していることであ」り、「野生のエンバクも、中近東の遺跡から多数出土している」。ライムギは、「エンバク同様、おそらくはコムギ畑に侵入した雑草性の近縁種がやがて栽培植物に『昇格』したものであ」り、「その起源地ははっきりしたことはわからないが、四倍性コムギやオオムギの起源地と重なると目され」ている。このように、「これら『麦』たちの起源は、地理的にも、系統的にも近接しあっていることになる」(佐藤洋一郎「序」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、6頁])のである。

  優良イネ科植物の宝庫 ここでは、「栽培化に適した野生植物や家畜化に適した野生動物が自然の状態で存在」(松谷敏雄「はじめにーなぜ西アジア新石器時代を研究するのか」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年]5頁)した。

 それだけではなく、メソポタミアは「他の地中海性気候の地域」に比べ、@面積が大きいので野性動植物の種類が非常に豊富であり、数千種ある「野生種のイネ科植物」のなかで「最優良種中の最優良種」56種のうち32種もあること(大麦は3位、エンマーコムギは13位)、A起伏に富んで「さまざまな野生種が分布」し、「時期的にずれた収穫」が可能、B「家畜化可能な哺乳類も豊富に生息」、C8種の「起源作物」(穀物[エンマーコムギ、1粒小麦、大麦]、マメ類[ヒラマメ、エンドウ、ヒヨコマメ、オオヤハズエンドウ]、繊維植物[亜麻])がすべて揃っていること、Dこのおかげで「栽培化や家畜化にさほどの時間をかけることな」かったこと、E「『狩猟採集生活』対『農耕生活』という生活様式の競合が、地中海西部や他の地域にくらべて少なかった」ことなどの特徴をもつ(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年、204ー210頁)。

 この優良イネ科植物の宝庫こそが、気候変化に呼応して、人類に栽培化ー大人口ー領域国家への道を開いたのである。

 古代人の科学的習性 それまで、人類は、「気候変動に伴う植生の変化や動物種の変化に対応しながらさまざまな技術を蓄積して」、優良種の選別眼を養っていった。それは、「自然の生態系の範囲内で行われ」、「生物界の食物連鎖の枠組みの・・秩序に従」(堀晄「西アジア型農業の拡散」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、169頁])うものだった。

 レヴィ・ストロースはは古代人のお品種選択と改良に関わる科学的態度について的確に言及している。当時の彼らは、自然人として自然に対する科学的知識を蓄積し、「長い科学的伝統の継承者」であった。 彼らは、「観察と実験のなかで、実用に役立ちすぐ使える結果を生じうるものは、ごく一部にすぎなかったのであるから」、「科学的な精神態度」や「根強くてつねに目ざめた好奇心」や「知る喜びのために知ろうとする知識欲」から、「野生植物を栽培植物に、野獣を家畜にかえ、もとの動植物にはまったく存在しないか、またはごく僅かしかみとめられない特性を発達させて食用にしたり技術的に利用したり、不安定で、壊れたり粉になったり割れたりしやすい粘土から、かたくて水のもれぬ土器をつくったり、土のない所や水のない所で栽培する技術、毒性をもった種子や根を食品にかえる技術、逆にその毒性を狩猟や戦闘や儀礼に利用する技術、多くの場合ながい時間を要するこれらの複雑な技術を作りあげた」のであった(レヴィ・ストロース、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、2009年、19−22頁[Claude Levi-Strauss,LA PENSEE SAUVAGE,Librairie Plon,Paris,1962])。だから、農耕民は狩猟採集民を「原始的だと軽蔑していた」が、「狩猟採集民は農耕民を無知だといって軽蔑していた」(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年、156頁)のであった。

 古今東西、概して「無文字民族は自分たちの環境と資源のすべてについて、途方もなく正確な知識をもってい」(レヴィ・ストロース、大橋保夫訳『神話と意味』みすず書房、1996年、25頁[Claude Levi-Strauss,Myth and Meaning ,University of Toronto Press,1978])るのである。

 だから、彼らは、「野生の草の種子を採取」し、「種子をまわりにこぼし」「小屋の周辺で自分たちが偶然ばらまいた種から生えてきた草の群生を発見」)し、これを「意識的に続け」(マイケル・クック、千葉喜久枝訳『世界文明 一万年の歴史』柏書房、2005年、45−6頁)て、ここに農耕が発生したのであろう。或いは、彼らが、「野生の動植物を育てる」過程で、「植物の収穫・播種、動物の飼育の際に選択を加えたために変化が生じ、新しい種類、品種が生み出された」(マイケル・ローフ、松谷敏雄訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、25頁)ということもあったであろう。

                                           第二 環境変化と小麦栽培

                                               1 小麦栽培開始

 では、人類は、どのように小麦栽培を始めたのであろうか。

 小麦の栽培開始時期は、ケバラ期(紀元前2万年ー紀元前12150年。草原で「季節的な遊動生活」「集団単位も一家族から数家族の小バンド」、オハロU遺跡は1000uの広大さで居住遺構出土。「野生のコムギ、オオムギを含む30種類以上の植物種子が発見」、堅果・果実も併食)、ジオメトリック・ケバラ期(紀元前12500年〜紀元前10500年前頃)、ナトゥーフ期(紀元前1万500年ー8300年、定住生活成立、アイン・マラッハ遺跡、初期で「発掘面積から・・10軒以上の住居が同時に存在」、中層では「住居の数はぐっと増加」し「食料貯蔵や墓として使われた多数の土坑も発見」)の3時期に大別される(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、132頁])。
                                     
 ゲバラ期 2万1千年前(最終氷期の最寒冷期、石器基準では後期旧石器時代[約3万年前ー約1万年前]にあたる)、イスラエルのガラリヤ湖畔で草葺住居が見つかり、「多数の魚骨」、「野生のオオムギ、二粒系コムギ、ピスタチオ、オリーブその他イネ科を含む無数の小粒の種子」が発見された。「イネ科植物の種子などの付着澱粉粒」の「擦り石」も発掘され、「ムギを含むイネ科植物の種子を擦りつぶして、食用にしていたらしい」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、71ー2頁])ことが判明した。 「古い狩猟採集の時代」から「野生ムギの利用」が始まっていたのである。

 約1.8万年前の「最終氷期の最寒冷期」には、花粉分析によって、「西アジア一帯には、アカザ科(Chenopodiaceae)、ヨモギ属(Artemisia)、それにイネ科(Gramineae)を中心とした広大な草原が展開し」、トウヒ・シデ・クリ・ナラなどの落葉広葉樹は黒海沿岸・カスピ海沿岸にあったに過ぎなかった事が解明された。
そして、「最終氷期の最寒冷期」の人々は、大草原でサイ、ゾウ、ウマ、ガゼル、バイソンなどの大型草食動物の狩猟に従事し([梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、116ー8頁)])、必要に応じて食用植物を採集していたのであろう。

 ジオメトリック・ケバラ期 1万3000年前頃のジオメトリック・ケバラ期に、気候の温暖・湿潤化と人口圧増加、大型動物のオーバーキリングで、「大草原の殺戮者たちの生活に危機が訪れた」のであった。一方、「地中海沿岸の死海沿岸からレバノン山脈、アスサリエ山脈、アマノス山脈・・アナトリア高原西部」にかけ、粗林から森林が成長し、「これまで森が存在しなかったアナトリア高原南東部からイラク北東部、そしてイランのザグロス山脈にかけての、いわゆる肥沃な三日月地帯にも森が拡大して来た」(安田喜憲「農耕の起源と環境」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、118頁)])。

 こうした「気候の温暖・湿潤化」と「森の拡大」の中で、「人々は大型哺乳動物の激減した草原を捨てて、森の中に退避」し、「森の資源を利用するためには定住生活を余儀なくされ」、「この森の植物利用の技術が農耕を誕生させる技術革新の中心になった」(安田喜憲「農耕の起源と環境」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、119頁])。この様に、人々は、「森とその周縁で得られる多様な食料資源を利用、開発」して定住しだした(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、134頁])。このレヴァント地方で次のナトーフ文化が興隆する(岡田明子・小林登志子『古代メソポタミアの神々』集英社、2000年、32頁)。

 
                            2  ナトゥーフ期(紀元前1万500年ー8300年頃)の小麦栽培
                                   
                                   @ 森から草原への移動・定住  

 この森定住民の人口が増大するなか、1万1000年前のヤンガードリアス寒冷期に、マンモスがオーバーキリング状態となったのみならず、寒の戻りによる「木の実の生産量」減少という食料危機に直面し、日常的に直面してきた人口圧は最大に達して、「再び森から草原へと進出」し、「人類はやむにやまれず、農耕を開始」したと推定されている(安田喜憲「地球が激動した晩氷期」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、35−6頁)])。

 ナトーフ後期((紀元前9000年ー8300年頃)、「パレスチナの森林周縁ばかりでなく、内陸の草原地帯からもナトーフ的な石器を出土する遺跡が多数発見」(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、134頁])された。 「レヴァント北部から北メソポタミアにかけて東西に広がる草原地帯」が、人々が穀物依存への傾斜を強め、社会変化が生じた主要舞台」(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、139頁])となる。

 では、その最大に達したという人口圧はどの程度に深刻だったのか、本当に農耕従事は「やむにやまれず」だったのか。人口圧への対処法には間引きなどの従来からの方法がいくつかあったろうから、農耕従事という選択肢の比重が最も大きかったというわけではない。つまり、従来も人類は食料に合わせて集団人口規模を事前調整してきたのであり、暖期に増えた食料に呼応した人口増を寒冷期に減少で対応するべく、従来の居住地域の森から過剰分子が移動を開始したということだけのことである。アフリカからの人類拡散の歴史からして、そうして人類の人口増加対応策であったのだから、人口圧と農耕開始との連関には決定的必然性というものはないということである。

 だが、今回は従来とは違うことがあった。それは、草原に戻ってきた人類は、数千年間に草原で育っている間にイネ科植物の中には茎により多くの穂を実らすものもあり、故に主食となる可能性の大きい植物種に遭遇できたということである。もしこれに遭遇しなければ、西アジア・ヨーロッパはアフリカと同じく従来と同じことの繰り返しであったろう。その間に、アメリカ新大陸では、イモ類を起動力に文明を起こし、とうもろこしというイネ科植物を長期にわたって品集改良して多産性品種に育てあげ、じっくりと「富と権力」システムを造りだし、コルテスやピサロを迎えることもなければ、逆に余剰人口・資本をユーラシア大陸に向けていた可能性もあったであろう。この時期に多産性の品種を手に入れることができたかどうかが、人類の文明秩序を最初に決めたということである。その多産性品種がたまたまイネ科の麦と稲だったということである。

 つまり、単なる人口圧による森からの一部はじき出しという事態より、成長したイネ科植物の存在とそれとの遭遇という事態こそがより重要であったということなのである。1万1000年前頃、「初期農耕遺跡の多くは、森の分布域かその周辺に点在」し、まずは「イネ科の草本を栽培」する農耕が「森と草原のはざまで」(安田喜憲「農耕の起源と環境」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』(講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、118頁)])端緒的に誕生したということが重要なのである。あくまで端緒なのである。やがてこの栽培の展開が人口増を支えてゆく過程で、これが人口圧で森からはじきだされたことへの有力な対処方の一つであることが次第に認識されてゆくのである。因みに、これが人口圧に対応できるようなレヴァント農耕に結実するまでには、あと2千年間かかったのであった。人類の文明の基軸たる「富と文明」の前者の富が形をなす過程は千年単位で動いたということである。千年単位の視野を持つ必要性は、断片的に短期的に見て いる者どもには分からないということだ。目先のことのみでこと足れるという姿勢は、本物の学問にとっては有害ということなのである。

 前1万年前ー9000年、レヴァント東部のテル・アブ・フレイラで定住がはじまるが、彼らはまだ「狩猟採集生活をつづけてい」て、「大量の植物性炭化物」の分析によって「157種(@「大半は無毒な種子を持ち、そのまま食べられる植物」、A毒を除けば食べられる「マメ類やアブラナ科に属する植物」、B僅少だが、「昔から染料や薬として使用されていた種類に属する植物」)という驚くほど多様な野生植物を採集していた」ことが判明した。彼らは、ニューギニア人と同様に、「その知識を使って約に立つ植物だけを採集していた」(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年、214−5頁)のである。

 前9000年頃、レヴァント西部のヨルダン渓谷で農耕が始められた。ヨルダン渓谷で最初に栽培された植物は、「今日でも世界の主要穀物に数えられる大麦とエンマーコムギ」であった。なぜか。イスラエル人学者(オフェル・バール・ヨセフ、モルディハイ・キスレフ)は、@大麦とエンマーコムギは「味がよく種子の大きいもの」23種の二つであるが、A残りの21種は「種子が小さいとか収量が少ない」などの短所があって「有用な特性を備えていなかった」ことを明らかにした。ヨルダン渓谷の農民は、「自分たちの生活環境に自生している野生種についてよく知っており」、「種子の大きさ、味のよさ、収量の多さといった判別しやすい特性にもとづいて、他の穀類でなく大麦やエンマーコムギを意識的に選んで集め、家に持ち帰り、最初の作物として栽培化した」(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年、216頁)のである。

 栽培化(domestication)とは、「人間が植物を栽培管理した結果、それに呼応して植物の遺伝的な性質が変わ」る過程・行為とする(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、76頁])。しかし、ここには、環境や集落への変化という視点がない。

 植物の栽培化に至るプロセスは、「パレスチナとその周辺地域」では1万年前に「かなりの程度まで住民の定住」が進んでいて、彼らは、「野生の草の種子を採取」し、「種子をまわりにこぼし」「小屋の周辺で自分たちが偶然ばらまいた種から生えてきた草の群生を発見」(クック前掲書、45頁)し、これを「意識的に続け」(マイケル・クック、千葉喜久枝訳『世界文明 一万年の歴史』柏書房、2005年、46頁)、ここに農耕が発生するというものである。この点をもっと分析的に考察すると、@野生植物を採集するという「純粋な狩猟採集の生活」から始まり、A野生植物の栽培がこれに続き、「野生植物は人間による栽培管理を受けるようにな」り、「長い年月をかけて種子の『脱粒性』や『休眠性』といった野生の性質を喪失」し、「種子が成熟しても」穂が落なくなり、人間は「その種子を容易に収穫・播種」できるようになり、B栽培化された植物を栽培するということになる(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、76頁])。

  こうして、最終氷河末期から始まった気候温暖化に伴い、「森林の拡大、そして森林の下草としての麦類の分布の拡大があり、その利用化の帰結としての栽培がレヴァント地域を中心に始まった」(堀晄「西アジア型農業の拡散」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、168ー9頁])のである。

                                           A 野生種の栽培 

 ナトゥーフ期(プロト新石器時代)のアブ・フレイラ遺跡(シリア・ユーフラテス中流域)では、大きく充実したライムギ種子が発見された。ここの年間降水量は約200mmなので、野生ライムギの自生は困難なので、栽培種ではないかと指摘された。新石器時代のギルガル遺跡(ヨルダン渓谷)では、26万粒のオオムギ種子・12万粒のエンバク種子が発見された。この量の多さは、野生種の栽培を推定させたのである。

 こうした「植物の栽培化が行われる以前の栽培行為」は、pre-domestication cultivation (栽培化前耕作)或いは、もっと積極的に pre-domestication agriculture(栽培化前農耕)といわれている。ナトゥーフ期から新石器時代にかけて、「鎌刃や搗き臼などのような、植物を効率的に採集して加工するのに適した道具が多く出土」された。

 新石器時代になると、その集落規模は、「それ以前に比べてはるかに大きくなり、定住化がかなり進んで、より農耕に適した生活様式にシフト」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、75−6頁])したのであった。この頃から、人類は「野生コムギを利用」(森直樹「色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、53−4頁])しだしたのである。

                                         B 栽培野生種の小麦種別

 さまざまな倍数性の「コムギの進化には野生のコムギを『改変』して、人間にとって都合がよい『栽培植物』に仕立て上げたという人間の行為が関係している」のである。従って、「コムギ進化の物語には自然だけでなく西南アジアにおける農耕の起源やその後の民族の興亡、移動などといった人類の活動が深く関わっている」(森直樹「染色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、48頁])ことは言うまでもない。

 小麦 四倍体(染色体の数が28)成立までのプロセスは「すべて自然界で起こった」が、「それ以降のコムギの進化には人類が密接に関係し」、「最も重要なものが『栽培化』」ということになるのである。この栽培植物は、「人間の手助けなしには生存できない特殊な植物へと進化」し、自力維持能力を「大幅に低下」させた。栽培コムギは人間にとって都合がよいものであり、野生コムギのように「種子が成熟すると小穂という単位で自然にバラバラ落ちる」「脱落性」がなく、「人間が収穫するまでその種子を落とす事はな」くなった(森直樹「染色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、50−51頁])。人間は、この脱落性の困難な種を選んで栽培しだしたのである。

 一粒系小麦 栽培一粒系コムギ(小穂のうち、一花しか結実しないコムギ)は二倍性であり、、約9000年前のイラン、トルコ、シリア、ヨルダンなどの遺跡から出土し、一粒系コムギの栽培化は「いくつかの地域で同時並行的に」なされいた。この栽培一粒系コムギはエンマーコムギとともに「最も初期に栽培化されたコムギのひとつ」だったが、「ローマ時代以降はおもに家畜の飼料として利用」された。1997年マックスプランク研究所調査によると、「トルコ南部のカラジャダーという山の周辺で採集された野生一粒系コムギのDNAタイプ」が「栽培系コムギに最もよく似ている」ことが判明した(森直樹「色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、54ー5頁])

 二粒系小麦 二粒系コムギ(AABBゲノム)は四倍性であり、「野生種であるパレスチナコムギが栽培化されて栽培型の二粒系コムギ」として生まれたものである。野生種のパレスチナコムギは、「地中海の東岸に当たるイスラエル、ヨルダン、レバノン、シリア南西部にかけての地域にたくさん分布」したが、「肥沃な三日月地帯の最北部(トルコ)から東のイラク、イランにかけての北部地域ではその頻度は低く、野生チモフェービ系コムギであるアルメニアコムギのほうが多くなる」のである。つまり、「パレスチナコムギの自然分布域は野生一粒系コムギなどに比べると限定的」で、「一粒系コムギと同じように肥沃な三日月地帯の各地で並行的に栽培化」(森直樹「色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、57ー9頁])されたのである。

 エンマー小麦 パレスチナ小麦(AABBゲノム)からエンマー小麦(AABBゲノム)が誕生し、ともに四倍性である。つまり、「倍数性進化によってコムギ属に登場した野生種のパレスチナコムギを人びとが食料として利用し始め、徐々に『栽培化』された結果として生まれたのがエンマーコムギ」であり、「エンマーコムギは一粒系コムギやオオムギと同じころに栽培化され、ムギ農耕の黎明期に主要な作物として広く栽培されるようになった」ものである。そして、「コムギやオオムギなどの栽培植物とヒツジなどの家畜をともなったムギ農耕が広がるにつれて、エンマーコムギの栽培地域もイラン北部にまで拡大し、ここでコムギの進化に関わった第三の二倍種であるタルホコムギと出会った」のである。

 最初に生まれた栽培種エンマーコムギ(難脱穂性)と野生種パレスチナコムギとの最大の違いは、穂の脱落難易如何である。だが、ともに「種子が穎に硬く包まれ」ていて脱穀が容易ではなく、石臼などを使用(森直樹「色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、57ー60頁])。上記一粒コムギも難脱穀である。「難脱穀性のエンマーコムギから突然変異によって生じた」マカロニコムギは「易脱穀性」である。

 新石器時代(9000年前)から5000年前、二粒系コムギの「エンマーコムギは西南アジアにおいて最も重要な作物の一つ」(58頁)である。主食、ビール材料として「西は地中海沿岸部やヨーロッパ、北はトランスコーカサス地方、さらに東の中央アジアからインド亜大陸、南は南アフリカ」へと伝播した。2002年、マックスプランク研究所によると、「トルコ南東部のカラジャダーという山の周辺で採集されたパレスチナコムギ(野生種)がエンマーコムギ(栽培種)と最も近縁」とした。「栽培エンマーコムギに野生種のタルホコムギ(DDの遺伝子、コーカサスからアフガニスタン・中国北西部の内陸部に生存)が交雑」して普通コムギ(AABBDD ゲノム)が誕生した(森直樹「色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、58ー65頁]、『ブリタニカ国際大百科事典』18、ティビーエス・ブリタニカ、1995年)

 マカロニコムギは易脱穀性からエンマー小麦、パンコムギ(64頁)に置き換わった。パンコムギは「現在世界中で最も多くの人びとが利用」(森直樹「色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、64ー5頁])している。

 普通系小麦  エンマー小麦の近傍で自生していた雑草タルホコムギ(Ae. squarrosa)と自然交雑して、「雑種の染色体倍加」で六倍性の普通系コムギ(AABBDDゲノム)が誕生した。「エンマー小麦とタルホ小麦は違う属に属」し、「できた普通小麦はたまたま人間の栽培に都合がよかったために主要な栽培小麦として世界に広まった」(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会、1996年、215頁)ようだ。「後に世界を席巻することになる普通系コムギが、じつは栽培二粒系コムギの畑で二次的な作物として生まれ」、「人間の管理下において、人間が知らないあいだに、画期的な進化が起こった」(森直樹「染色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、52頁])のである。

 これについて、アメリカのDvorak氏は、「普通系コムギのDゲノムをタルホコムギ」と比較して、@「タルホコムギの自生地においてエンマーコムギとタルホコムギのあいだでの交雑が何回か起こり、普通コムギが起こり」、「多元的に起源した普通系コムギのあいだで交雑などが起こり、現在のようなDゲノムができあがった」か、Aパンコムギがエンマーコムギ、タルホコムギと交雑して、「現在のようなモザイク状のDゲノムができた」とした。森直樹氏は、「母性遺伝する葉緑体DNAに注目して普通系コムギの起源を解明」を試み、「パレスチナコムギ(野生二粒系コムギ)が栽培化されて成立したエンマーコムギには少なくともふたつの母系があったが、このうちいっぽうの母系だけが現在の普通系コムギに直接伝わった可能性が高い」(森直樹「色体数の倍加により進化したコムギ」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、66−7頁])とした。いずれにしても、普通系小麦の登場は、遺伝学的には染色体の倍加であったのである。

                                       B 栽培型・野生型の混在

 栽培行為に随伴した非脱落性の定着するまでに、どれくらいの年月がかかったであろうか。Hillman and Davies(1990)のコンピューター・シミュレーションによると、「栽培型ムギは20−30年あるいは長くとも200−300年で畑で定着する」とするが、これは早すぎると批判された。しかし、「新石器時代PPNB前期(ネヴァル・チョリ遺跡)に栽培型の傷痕のある穂軸が初めてみられるようになったが、まだ大多数は野生型であ」り、「新石器時代後半(土器新石器期、テル・エル・ケルク遺跡)ころから、栽培型の穂軸が野生型のそれを上回るようになり、新石器時代が終わって銅石器時代(コサック・シャマリ遺跡)に入ってようやく栽培型が優先的になる」のであり、「栽培型のコムギは、3000年以上の長い年月をかけてゆっくりと増加し野生型コムギと置き換わったことが遺跡出土コムギの証拠から明らかになった」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、82−4頁])。

 さらに、「最初の栽培型の突然変異体が出現するまでにも、数千年オーダーの長い年月のあいだ栽培行為(栽培化前栽培)が行われていたことが想定」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、84−5頁])された。

 栽培型と野生型の両者が長いあいだ混在していた時期には、「どのような栽培管理が行われていたのだろうか」。収穫方法は、「野生型の小穂が脱落する直前に、鎌で収穫していた可能性」がある。これでは、非脱落型の栽培型に対する「選抜圧はそれほどつよくかからない」。一方、「栽培化の初期のころに、野生種がたくさん共存していたということ」は、「祖先野生種のもっている多様性を栽培種に取り込」み、栽培種は「遺伝的に多様」にし、免疫をつけるには「よいチャンスであった」ので、「育種という面からみてもたいへん望ましいこと」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、85頁])であった。

 栽培型と野生型の両者の共存について、レヴィ・ストロースは、「『野生の思考』とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。・・この両者(栽培思考と野生思考)が共存し、相互に貫入しうるものであることがもっと理解しやすくなっている。それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、共存し交配されうるにと同じである」(レヴィ・ストロース『野生の思考』262頁)と、指摘している。

                                  3 新石器時代の小麦栽培
 
                                      @ 先土器新石器時代A期

 ナトゥーフ期(プロト新石器時代)から新石器時代PPNA期(前9500ー前8600年)にかけて、遊動生活が定住生活に変化した。こうした生活様式の変化が、「利用する植物の種類を大きく変化させ、農耕の開始」を導いた。農耕開始の直前の時代には、「現在でいうところの『雑草』と呼ばれるような野生植物の小さな種子などが、主として利用されていたと推定されている。草原に戻ってからも、「手つかずの森林がまだあったこの時代には、ピスタチオ属植物、野生アーモンドなどのナッツ類も重要な食料」であった。

 上述のように、最古の栽培種ムギは、ヨルダン(レヴァント南部)渓谷を中心とする「先土器石器文化Aの遺跡群(ネティブ・バグドゥド、ジェリコ、ギルガル、テル・アスワドなど)から出土し」、「ヨルダン渓谷周辺は、野生種ムギの中心的分布域」( 藤井純夫「西アジア農耕起源論の出発点」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、10頁])となった。

                                   A 先土器新石器B期


 栽培化の促進 新石器時代までに「植物は栽培化」され、新石器時代中期PPNB期(前8600年ー前7000年)に、「ムギ類をはじめ多くの植物が栽培化」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、77頁])された。

 やがて、栽培植物が野生植物を駆逐しだす。つまり、ファウンダー・クロップが「好んで利用される」ようになると、「それまで利用されていたイネ科、マメ科などの小粒の野生植物は徐々に遺跡から姿を消」し、「畑雑草として知られる植物が増加」したのである。このような出土植物の変化は、「定住化、栽培化というステップを経て、農耕に依存した社会へと徐々に変化していった証」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、77頁])である。

 新石器時代のPPNA(Pre-Pottery Neolithic A、先土器新石器文化A)とPPNB(Pre-Pottery Neolithic B、先土器新石器文化B)とを比較すると、@PPNBでは「方形住居が好まれるようになり、集落規模がいっそう大型化」し、「ナヴィフォーム型という特徴的な石核を用いた石器製作技法が普及」し、APPNA期は「南レヴァントが文化の中心地」だったが、PPNB期には「北レヴァントのトルコ東南部と北シリアにかけてのユーフラテス川中流域に起源を発し、その後、南レヴァントなど周辺地域に急速に広ま」り、B北レヴァントでは「ファウンダー・クロップの祖先とみられる野生種のすべてが、折り重なるように分布」する。考古学的には、「栽培型と判断されたムギの最古のものは、北レヴァントのネヴァル・チョリ遺跡(東南トルコ)のコムギ(大部分は一粒系コムギ)」となる。このように、「PPNB期には農耕が成立していた」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、77ー8頁])のである。

 栽培行為自体は、「南北両レヴァントで始まっていた可能性があ」り、「現時点の考古植物のデータからは、一粒系コムギを除いて、栽培起源地を北レヴァント(シリア)に限定できない」のである。事実、南レヴァント(ヨルダン)のテル・アスワド遺跡(前8500−前8000年)では、最古の栽培型の二粒コムギが発掘されている。「野生種(脱落性)と栽培種(非脱落性)の判別」基準は「小穂の脱落性・非脱落性」である。「野生種では種子散布するために『離層』という組織が形成され、種子が成熟したときに小穂が脱落」するが、「栽培種の非脱落性という性質は突然変異によって生じたもの」で、「栽培型では、種子が成熟しても固着したままの非脱落性の小穂を、人間が脱穀して無理やり壊した傷跡が残る」(丹野研一「考古学からみたムギの栽培化と農耕の始まり」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、79−80頁])のである。

 栽培のレヴァント全域拡大 最初の農耕文化は、先土器新石器A期に兆候が見られ(「北の草原地帯でみられる穀物利用への傾斜とさまざまな社会的変化の兆候」があった)、次の先土器新石器B期には、「レヴァント全域で最初の農耕文化として結実」した。この頃には、「コムギやオオムギ、マメ類」の多くは「明確な栽培種」となり、もはや「多様な植物利用」はやめて、10種類に「大きく依存」しだした。同時に、「ヒツジとヤギを中心とした中型草食獣の家畜化も進行」した。こうした「生業上の変化」により、「泥れんが」「石の壁」を備えた「方形プランの住居が密集した集落」が形成され、先土器新石器B期後半には「10haを優に超えるような、後の青銅器時代小都市に匹敵する規模をもつ巨大な町」まで建設された。「農耕文化のレヴァント全域への拡大」は、「草原地帯から中間の疎林帯」から「本来穀物農耕に適さない森林地帯」にまで及び、磨製石斧の普及で森林が破壊されだした(1。紀元前8000年紀から、農耕拡大でメソポタミア低地で「乾燥化が徐々に進行」し、「草原地帯での可耕地面積の減少」をもたらし、こうした行詰りの中で、「都市」が造られる(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、139ー140頁])。

 ここで、レヴァント農耕起源理由を要約して、再確認すると、@「更新性終末の温暖湿潤化にともない、パレスチナで森林が出現し、その環境下で人々が定住集落を営みはじめたこと」、A「定住集落という生活様式をもった人々の一部がレヴァント北部の草原地帯という異なる環境へ進出して食料資源としての草本類に着目したこと、B「そのなかからやがてムギ、マメという最も生産性、貯蔵性に優れた一年生草本の選択的利用を始めたこと、C「またそうしたなかから最初の栽培の試みが行なわれるとともに、それにともなって集落の拡大と社会の再構成が生じたこと」(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、140頁])となる。

 西アジアが世界最初の麦農耕を始めた理由をも再確認すると、「森林、草原、砂漠という異なる植生が隣接した自然環境がそこに存在していたからであ」る。この点、「ナイル河の周囲がいきなり砂漠となってしまうエジプト」や、「森林に覆われて大草原が存在しなかった日本の縄文時代」とは異なっていた(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、140頁])

 新石器時代の後半に人口が増加し、日干し煉瓦の住居のほかに、「広場や街路、共同施設」をそなえた10haを超える大型集落が登場した。以前とは異なり、ここでは「祭祀・儀礼、工芸、交易」などが展開した(有村誠「西アジア先史時代のムギ農耕と道具」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、89頁])。

 北部レヴァントでの農耕 テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra)、テル・ムレイビット(Tell Mureybit)(いずれも「パレスチナから遠く離れた北シリアのユーフラテス河中流域」)では、「森林とは異質の草原という環境のなかで定住生活が試みられた」。後者テル・ムレイビット遺跡では、ナトーフ期終末から先土器新石器時代A(紀元前8300−7600年)、先土器新石器時代B(7600−6000年前)にわたっていた。ここでの重要変化は、「V層と名づけられた先土器新石器A期」におこる。この時期、「住居では円形プランの竪穴住居から方形プランの地上型住居への変化、打製石器では両端部から効率的に長い石刃を剥離できる石核(ナヴィフォーム型石核)と押圧剥離技法の出現」が見られ、それにともない「茎部が明確につくりだされた定型的な大型尖頭器(後のビブロス型尖頭器の祖形)の登場、先進的な鎌刃の発達、磨製石器では磨製石斧の登場と穀物の製粉により適した形態をもつ石皿と磨石の開発、さらに土偶や土器(先土器時代の土器)の製作」など、「遺構や遺物に新しい様々な要素」が登場する。これらが、先土器新石器B期に「レヴァント全域に広がり」、「最初の確実な農耕文化」たる先土器新石器B文化の中核となる(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、134−6頁])。

 ここは(現在の年間降水量200mm前後。これは「コムギの天水農耕」安定降水量250−300mmをやや下回るが、当時は「現代よりもかなり湿潤」)、「シリア北部からトルコ南部、イラク北西部にかけての地帯」の大草原地帯は「豊かな冬雨」の降る「西アジアで最大級の穀倉地帯」に接している。ここ自体、「ムギの自生可能な草原が広がっていた可能性」がある(137頁)。「ナトゥーフ後期に地中海沿岸の森林とその周縁の疎林帯から内陸の草原に進出したナトゥーフ人たちは、このような草原に生育する多様な草本性植物に注目することによって、定住集落を維持しようと試みた」のであった(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』138頁])。

 この点、北シリアでは、ユーフラテス河という「一筋の森林ハイウェーが伸び」、「パレスチナにやや遅れて湿潤化が進み、西アジア有数の大草原が広が」り、「草本性植物利用の実験場として最適な地域」(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、137−8頁])であった。アブフレイラの「ナトゥーフ後期層」の植物遺存体分析で、「157種もの可食性植物種子」が同定され、うち「30種類以上ものイネ科植物」「20種類以上ものマメ類」であり、「なかにはコムギやオオムギ、レンズマメといった後に重要性を増す草本の野性種」が含まれる(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』137−8頁])。


 
先土器新石器A期のムレイビットV層では、「コムギとオオムギの出土種子(すべて野生種)に占める割合」は、従来の1−2%から60%にまで激増した。その種子については、「栽培種となる過程の野生種を栽培していたのか」、「野生種を採集していたのか」に議論があるが、「問題の本質は、人々が多種多様な草本類利用の経験のなかからコムギとオオムギ、そして数種のマメ類を選択しそれに強く依存しはじめた」(常木晃「西アジア型農耕文化の誕生」[梅原猛・安田喜憲編『農耕と文明』、講座『文明と環境』第3巻、朝倉書店、1995年、138頁])ということであった。

 西アジアにおけるムギ農耕の定着について見れば、@「旧石器時代末期は、ムギ農耕や穀物加工に使用されたと考えられる道具(「ムギの収穫を示す鎌刃、籾摺りや製粉に使われた石臼や石皿」)が初めて出現し」、「続く新石器時代にムギ農耕が始まることを考えると、ムギ農耕開始直前のごく自然な状況」であり、Aしかし、「植物依存体の分析結果によれば、旧石器時代末期から新石器時代初頭にかけて、ムギ利用が活発になったという証拠はな」く、「むしろ、ムギはこの時期のほとんどの遺跡において限られた量しか出土せず、マメ類や堅果類など多様な植物を利用する生業が一貫して続いている」から、「ムギは旧石器末期に食物の一翼を担うようにはなっていたが、まだ重要な食料ではな」く、B新石器時代には、「ムギ類の収穫を示す鎌刃」が増加し、収穫具に直線鎌・収穫ナイフ(新石器時代前半)、湾曲鎌(新石器時代後半)が使用され、「効率的」な「収穫作業」が重要になり、脱穀具・脱穀橇(新石器時代後半)がつくられ、製粉具としてサドルカーン(新石器時代後半)も造られたということになる。以上の「ムギ農耕関連の道具や設備の変遷」を踏まえれば、「新石器時代後半(前7500−前6000年)をムギ農耕が定着した時期」とみなせ、この新石器後半以降に「栽培型コムギが主流」になったということができよう(有村誠「西アジア先史時代のムギ農耕と道具」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、103−4頁])。

                             4 土器新石器時代(前6000年ー前4000年)

                               @ハッスーナ文化・ハラフ文化期

 ハッスーナ文化期 前1万年ー前8500年の先土器新石器時代には「野生と栽培した麦の両方を、しかも小麦も大麦も区別なく食べていたらしい」が、前6500年のハッスーナ文化期(土器時代)、バビロン、古代エジプトなどでは「大麦のほうが選ばれて栽培」された。「西アジアのような乾燥していてあまり肥沃でない土地には、大麦のほうが向いており、収量も多」く、雨季になる前に「小麦より少し早めに収穫でき」た。しかも、「土器がつくられ、『煮る』ことができるようになる」と、小麦よりおかゆに適していた大麦がさらに好まれだした(長尾精一「おかゆからパンへ」[長尾精一編『小麦の科学』朝倉書店、1995年、2−3頁])。

 野生種大麦の「分布域は、ヨルダン渓谷南端ウディ・アラバの周辺から同渓谷を北上し、シリア北西のアフリン渓谷周辺に延び」、「更にタウルス山脈の南麓を東進し、ザクロス山脈の西麓南端部フージスターン地方に至っている」(藤井純夫「西アジア農耕起源論の出発点」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、12頁])。気温・水に規定された「完新世初頭における野生種オオムギの分布」は、「降水集合の北退が、気湿集合の北限に追いつき追い抜く、まさにその途上にあ」り、「その結果、北シリア・北イラク・ザグロス西部方面がようやく、積集合に再編入され始めた」(藤井純夫「西アジア農耕起源論の出発点」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、28頁])のであった。

 前6300年頃のハッスーナ後期(サマラ文化期)に、灌漑農法が開始された。「テル・アル・ソワン」遺跡はイラク中央部を横切るように分布」し、以前の「泥壁」とちがって、「枠にはめてつくった日干しレンガ製」が使われた。「亜麻の存在や、その種子の大きさ」、チョガ・マミの運河などを根拠に灌漑が行われていたことがわかる(マイケル・ローフ前掲書、48頁)。つまり、「イェリコやチャタル・フユクでも小規模な灌漑は行われていた可能性はあるが、サマッラ期になってようやく人々はかなりの距離にわたる運河を掘り、維持する技術を身につけ」、「灌漑によって、天水農耕地帯には、さらに多くの収穫がもたらされ、人口支持力も増大した。また雨量の十分な地域でも農耕ができるようになった」(マイケル・ローフ前掲書、48頁)のである。

 こうして、サマラ期に灌漑農法が始まり、テル・エス・サワン遺跡の「ティグリス上流域の豊穣神」は、「5−10cmと小ぶり」、「眼は象嵌でぱっちり見開き、頭部は瀝青を盛り上げて洒落た髪型」になり、「青い石や貝製の素敵なネックレスを付け」(岡田・小林前掲書、34頁)、装飾的になった。

 ハラフ文化期 前6000年頃、北メソポタミア(北イラク、シリア)では「ハッスーナ文化がハラフ文化にとって代わられ」(マイケル・ローフ、松谷敏雄訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、48頁)、600年続く。

 ハラフ文化期では、栽培植物はハッスーナ文化・サマッラ文化期と同じであるが、天水農耕地帯では「大規模な灌漑にはほとんど頼ることなく農業が行われていた」(マイケル・ローフ前掲書、49頁)のであった。この地域では、灌漑農法は後退していた。このハラフ文化は、「急速な発展」により、「西方および東方のはるかかなたまでーおそらく、インダス渓谷あたりまで達した」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』11頁)。

                                     Aウバイド期

 前5000年 ウバイド期(前5000−前3500年)には、「灌漑技術を含む高度な技術をもって、人びとはティグリス・ユーフラテス両川下流地域に進出して、ここに灌漑農耕を基礎におく文化を形成」(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、7頁)した。南メソポタミアでは「降雨量が年間100mm前後で天水による農法は不可能」であり、ウバイド3期から「農具の改良と普及」で「大規模な本格的灌漑農耕が開始」(常木晃・松本健編『文明の原点を探るー新石器時代の西アジア』同成社、1995年、189頁)された。

 こうした灌漑農耕の発展が、「余剰を生み、神殿を建設し、さらに交易が頻繁に行われるようになった原動力」(1常木晃・松本健編『文明の原点を探るー新石器時代の西アジア』同成社、1995年、89頁)である。灌漑農法で「上流や周辺の山岳傾斜地では考えられなかったほどの大麦や小麦の収穫をあげた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』慶應出版、2011年、15頁)のである。こうして、「灌漑という新しい生産技術の成功で、従来の天水農耕とは比較にならない生産性を獲得したウバイド文化は、文明の発祥地である北の文化を圧倒して広がった」(前田前掲書、7頁)のである。

 前4200年 北半球の寒冷前線帯(ポーラーフロント)が南下して、前4200年「クライマティック・オプティマ(気候最適期)とよばれる地球温暖化の時代」が終了し、前3700年には西アジアで寒冷・乾燥化が顕著となり(稲森和夫編『地球文明の危機』305頁)、「パレスチナ全体に広がった気候の乾燥化に伴う環境の激変」で、「従来型の長期定住大型集落は消滅」し、「天然資源の枯渇化、従来の社会ー経済システムの崩壊、大量の廃棄物などにより、地域全体の荒廃が進んでしまった」(常木・松本編前掲書、130頁)のである。

 「この気候の乾燥化で居住地を追われた人々(牧畜民)が、環境難民となって大河のほとりに水を求めて集中」し、先住の農耕民と融合し、「都市文明」(シュメール文明)を誕生させた(安田喜憲「新たな文明原理は危機の時代に生まれた」稲森和夫編『地球文明の危機』306頁)。この点を瞥見してみよう。

                                     5 都市文明期

 前3000年 新石器時代から「肥沃な三日月地帯」には「たくさんの村落」が存在していたが(J.M.ロバート、青柳正規監訳『世界の歴史』創元社、2002年、108頁)、前4000年まで 「『肥沃な三日月地帯』の大部分にコーカサス地方から移動してきたカフカス諸語族も侵入をはじめ」(ロバーツ前掲書、105頁)、「アラビア半島のセム語族」も侵入を始め、「しだいに勢力を伸ばし、紀元前3千年紀(前3000−2001年)の中ごろにはティグリス・ユーフラテス川の中流域を越えて、メソポタミアの中央部に定住」し、ここにセム語族とカフカス諸語族との対立が生じた(ロバーツ前掲書、105−6頁)。こうした遊牧民は「定住民の生活様式を学ぶと同時に、自らの知識の多くを逆に伝え」、前3000年頃、ウバイド人の小規模な「灌漑設備や畑地」が人口増加・食料増産の必要に迫られて、「砂、水、葦から成る荒野が、文明の地へと相貌を変え」(ヘルムート・ウーリッヒ、戸叶勝也訳『シュメール文明ー古代メソポタミア文明の源流』祐学社、1980年、15頁)た。「今や新来の移住民は、その土地を組織的に開発」し、「流域の広大な土地に杭を打って測量」し、広範囲の土地から「水を汲みだし」、「場合によっては水を必要とする場所へと移した」(H.ウーリッヒ前掲書、15頁)のである。こうして、先住民はこの「新来の移住者」を「シュメール人つまり文化をもたらした者と呼」(ウーリッヒ前掲書16頁)んだのである。

 前2700年頃、バビロニアには「都市国家が25」あり、南部はシュメール系都市国家、北部にはセム系都市国家があり、前2300年頃まで「平和共存や領土・覇権争いを繰り返し」(ジャン ボッテロ、南条郁子訳『バビロニア われらの文明の始まり』創元社、1996年、30頁)た。

 前2200年 前2200年から200年間、「これまで以上に気候は激しく寒冷化と乾燥化」し、古代メソポタミア文明、エジプト古王国が崩壊し、長江文明も崩壊した(安田喜憲「新たな文明原理は危機の時代に生まれた」稲森和夫編『地球文明の危機』306頁)。その際、前2000年インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト、イラン人が侵入し、セム語族、カフカス諸語族と「衝突をくりかえしながら混じりあ」い、前1700年ヒッタイト帝国が誕生した(ロバーツ前掲書、106頁)。

 前1500年 前1500ー前1200年前、「気候はふたたび激しい寒冷化と乾燥化に直面」し、「過去1万年の中のもっとも著しい寒冷期」であり、エジプト、イスラエル、レバノン、シリアにかけての地域が「激しい干ばつ」に見舞われた。

 後300−400年の寒冷期(古墳寒冷期)に、ゲルマン民族の大移動が起こり、「気候の悪化による厳冬と旱魃・飢餓・疫病のために流民が増加するとともに社会不安が深刻化」し、それを「キリスト教や仏教」がやわらげた。

 なお、後1500年から小氷期とよばれる寒冷期が始まり、17世紀の小氷期には「農業生産力は低下し、ペストや疫病が蔓延」し、18世紀の第2小氷期にも気候的悪化に直面している(安田喜憲「新たな文明原理は危機の時代に生まれた」稲森和夫編『地球文明の危機』307頁、安田喜憲「地球のリズムと文明の周期性」[『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期、朝倉書店、1995年、250ー5頁]、伊東俊太郎「文明の変遷と地球環境の変動」『学術月報』47−1、1994年、小泉格「地球環境と文明の周期性」[『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期、朝倉書店、1995年])。
                                   
                                         
                                      6  人口圧と栽培との関連
 
 人口圧が農業栽培を開始させたということがよく言われるが、ここではこれを正確に考えてみよう。新石器時代の天水農法の集落人口は200−300人程度で、紀元前3千年紀の中頃までの人口の自然増加率は0.01%以下だったから(Polgar,S.ed.Population,Ecology,and Social Evolution.The Hague 1975,pp.6-10 [中島健一同上書61頁]』)、農業生産力の新生児の扶養力は低く、これが一定度の人口圧となっていた。

 しかし、次の750年間の人口の自然増加率は0.4−0.7%に増加した。そして、紀元前2500年以降の顕著な人口増加は、、「その時期がシュメール・アッカドの興隆期に一致」しているのである(Polgar,S.ed.Population,Ecology,and Social Evolution.The Hague 1975,pp.6-10[中島健一同上書61頁]』)。農業生産力の増加で、新生児の受入能力が非常に大きくなって、その限りでは人口圧は緩和された。だから、 「荒れ狂うチグリス=エウフラテス両河川の敵対的な沖積原の諸地方に、高度の文明が最初におこってきた第一の理由は、急速にたかまってきた人口圧との対決のために、農民たちのひたむきな集団労働によって、河川の溢流をコントロールし、食物を豊富に供給しえた巨大な灌排水体系をひろい沖積平野のなかで構築することに成功した」からとも言われるのである(Hawkes,J.,The First Great Civilization:Life in Mesopotamia,the Indus Valley,and Egypt,New York 1973,pp.31-33[中島健一同上書62頁])。

 だが、紀元前1750年−紀元後400年の期間には、気候寒冷化で農業生産力が減少して、人口の自然増加率は0.1%に減少し(Polgar,S.ed. Population,
Ecology,and Social Evolution.The Hague 1975,pp.6-10[中島健一同上書61頁]』)、人口圧が大きくなったことがわかる。人口は巨大化していたから、この時の人口圧はこれまでになく大きくなったと推定される。栽培開始時の人口圧の比ではなかったであろう。つまり、栽培開始時の人口圧は一定度あったろうが、この時期の人口圧に比べれば、それほどではなかったということである。従来からの人口圧の程度に近いものだったということである。


                                      第三 小麦の高生産性・貯蔵性

 高生産性 一般に、植物の生成・成長は、「光合成・呼吸・水交換など、代謝率に比例」し、「高温・乾燥の気象条件のもとでは、灌排水の水収支が完全であれば、理論的には、多量の副射熱によって作物の蒸散作用がさかんとなり、代謝率をたかめて、たかい収量をあげうる可能性をもっている」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、28ー9頁)とされている。

 これに灌漑が加わると、生産性はさらにあがる。つまり、灌漑農法は、塩害さえなければ(この塩害は次で詳述される)、「一般に畑作物の単当収量は2−3倍ちかく増加」(Clark,C.,The Economics of Irrigation,Oxford 1970,pp.17,36-7[中島健一『河川文明の生態史観』84頁])するとされる。シュメール時代(前3200年前ー前2004年)には、「犂耕、畝蒔き、出芽時の灌水」など集約農法で、「収穫量は播種量の約六十倍から八十倍」(西欧中世では十倍)と高いものとなった(前田前掲書、66頁)。実際、前2350年のラガシュでは、「大ムギは播種量の約80倍の収穫をあげ」(岸本通夫『古代オリエント』河出書房、昭和43年、21頁)ていた。治水・灌漑による農耕で、1ha当たり収量は2500g(現代のアメリカ・カナダの農業生産性に匹敵)(大場英樹『環境問題と世界史』)である。

 紀元前5世紀頃にヘロドトスはバビロンを訪ね、「メソポタミア平野の肥沃なことを称賛し、大麦の収穫高はたいていの地方で播種量の200倍、豊作の年は300倍」だとする。ビークはこの高さはありえないと批判するが、イネ科植物たる麦にはずば抜けた生産性があったことを示していることは否めないのである。こうした古代メソポタミアの麦の播種倍率(播種した種子に対する収穫の倍率)については、「テオフラトス(前287年没)は100倍と記録し、バローはローマ時代の南イタリアや北アフリカ(カルタゴ)の小麦収量を100倍としているのも、かならずしも誇張ではない」(中島健一『河川文明の生態史観』84頁)のである。

 しかし、「灌排水のバランスの調整に失敗して、作土が塩化してくると、高温・乾燥の気象条件は、温暖・湿潤の気象条件に比較して、塩害をいっそう激しいものにして、農作物の生育・成長を阻害する」(中島同上書29頁)ことになる。「作土の改良や更新のための努力が中断されると、作土の二次的塩化によって、その生産性はたちまち低下」(中島健一『河川文明の生態史観』84頁)する。従って、 「農作物の生育・成長に必要な灌排水の水収支を適切に整合させ、作土の二次的塩化をさけることができたならば、このメソポタミア低地地方は、のちのギリシァ人たちを驚かせたほどの、世界でもっとも高い農業の生産性をあげることができ」(中島健一同上書62頁)るということになる。

 紀元前5500−3500年、イランで「最初の灌漑農法」が試みられ、「丘陵地帯の天水農耕で栽培されてきた農作物を河谷の沖積地方で作付けしてみると、6−10倍ほどの豊作をもたら」した。特に、6条大麦(H. vulgare ssp. hexastichon )は2条大麦(Hordeum spontaneum)に較べて「はるかに多収穫をもたらし」、「たちまち各地方へひろがっていった」(中島健一『河川文明の生態史観』88ー9頁)のである。

 しかし、紀元前2400年、ラガシ(Lagash、イラク南部)のウルカギナ(Urukagina)時代、「神殿の直営地が灌漑によって二次的に塩化し、その営農が不可能になったことを記録」(Forbes.R.J.,Studies in Ancient Technology,Leiden,vol,U,1965,p25[中島健一『河川文明の生態史観』84頁] )している。「温暖・乾燥化のはじまる紀元前3千年紀の終り」頃から「収量は急速に低下」してきたので、この時期から「大規模な灌排水農法の導入」によって、「なおも20倍ほどの生産性を維持することができた」(前川和也「古代シュメールにおける農業生産」『オリエント』9巻2−3号、1966)のである。それを促したのは、高い人口増加率に基づく大きな人口圧だったのである。

 シルトの肥沃性
 このように灌漑用水が高生産性をもたらすのは、一般的に、河川は、「地域的には、河川の季節的氾濫とその沈泥(シルト)にめぐまれて、灌漑農法の独特のパターンを歴史的に形成し、人口の定着と集中をうながす」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、38頁)からである。

 河川は、「肥効をもたらすさまざまな物質(HCO3-[重炭酸イオン],So4-[硫酸イオン],Cl-,NO3[硝酸イオン],Ca++,Mg++,Na+,K+)を溶解している」のみならず、「さまざま固形物質を運んでくる」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、38頁)のである。近中東地方の諸河川が、「氾濫のさい運んでくるシルトは、0.005-0.001mm」か、「それ以下の細粒」であり、「この細粒が肥効をもたらすばかりでなく、土性を更新・改良し、貯水池や運河の漏水防止に役だっている」(中島同上書39頁)のである。
      
 だが、「このシルトは、やがて貯水池に沈殿して貯水量を減少させたり、灌排水のための運河を埋没の危険にさら」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、39頁)すのである。そこでは、「地下水の水質や水位が土壌の化学的組成に顕著な影響をあたえ」、「灌漑耕地の塩化現象の主要な要因のひとつは排水不良による土壌水や地下水の蒸発」となるのである(中島同上書39−40頁)。

 排水の重要性 チグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河の場合、「氾濫原」の「排水条件の良否」が「灌漑耕地の生産性を決定」するのである。この三大河は天井川であり、天井川の灌排水システムは、「氾濫原の地下水位がたかいために、洗塩のための排水が不完全であると、地下水の蒸発によって急速に塩化物を表土に集積し、農作物の生育をさまたげる」からである。

 小麦生産性と排水の関係を見ると、「灌排水システムが完備している場合、灌水量の増加によってきわめて高い増収(6倍以上ーMS)を期待することができる」が、「排水システムが不完全な小農民の灌漑耕地」の場合、「灌水量を増加しても、その収量は3倍どまり」である(中島健一『河川文明の生態史観』42頁)。「乾燥・半乾燥地方における農業生産力の決定的条件はまさしく排水機構にあり、灌水と補完しつつ、統一的にシステム化し、整備されなくてはならない」(中島健一『河川文明の生態史観』50頁)ことになる。

 しかし、ナイル・デルタの自然堤防のように灌漑耕地のレベルが河水面より高い場合には、「河川の単純な溢流灌漑だけでも、作土が粗しょうならば自然の排水によって脱塩される」のである。中央アジア南部地方の灌漑耕地では、「地下水の臨界水位を2.5−3mにおさえるために、排水システムを整備し、灌水による作土の二次的塩化を防いで」いて、「地下水位のふかい灌漑耕地は、排水システムがなくとも、灌水だけで洗塩することができ、洗塩のための用水量もすくなくてすむ」(中島健一『河川文明の生態史観』40頁)のである。

 そして、「灌漑耕地においても、無肥料で2−3年間連作すると、腐植の40−50%は消耗する」が、灌排水の水収支さえ完全であれば、「長期間の継続的灌漑によって、耕地の腐植量とN量とは安定してくる」(中島健一『河川文明の生態史観』52頁)のである。

 小麦の貯蔵 一般的に、穀物は、「乾燥して・・長期間の保存がきく」「熱したり煎ったりしておけば発芽を防ぐこともできる」ことで、収穫期と食用期をずらせる事が可能となるので、「値打ちはみなが認めるもので交換基準ともなるから、穀物はお金のような役目を果た」し、穀物貯蔵が「富の蓄積という可能性」もでて、「富に基づいて地位が決まるという社会を発展させる」(マイケル・ローフ、松谷敏雄訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、29頁)。そうした穀物の中で、小麦粒は、「丈夫な外皮でおおわれているので、条件さえよければ長期間保存しても品質的に安定である」から、最も交換性の高いものとなる。

 しかし、小麦貯蔵に悪影響を与える要因として、@虫(「小麦を保存する際の大敵」)、Aかび(「保存温度が上昇すると、かびは増殖」)、B水分(「小麦の水分は、かびの増殖と密接な関係」があり、「長期間保存するためには、水分が13.5%以下であることが必要」)、C気温(「水分とともに、気温は小麦の保存期間を決定する重要な要素」であり、「10度以下ではかびはほとんど増殖しないが、30度近くになると水分が多ければ被害は大きい」)(長尾精一「小麦の貯蔵・流通中の品質変化[長尾精一編『小麦の科学』朝倉書店、1995年、49ー50頁])が考慮される。これでは、高温の西アジアでの小麦保存は容易ではなかったであろう。

 このように、「貯蔵条件がよければ、小麦粉はかなりの期間、品質変化が少ない安定した状態で貯蔵可能である」が、「貯蔵条件が適当でない場合には、品質が少しずつ変化していく」(長尾精一「小麦粉の保存と熟成」[長尾精一編『小麦の科学』朝倉書店、1995年、113頁])のである。

                                  第四 メソポタミア農業の致命傷ー土壌の塩化現象

 もともとメソポタミアでは「すさぶ風、押し寄せる洪水、そして草木も人も痛めつける日照りだけ」しかなく、メソポタミアはとても農業などできる場所ではなかった。だからこそ、人々は「シュメールの神々は、こうした自然現象や平原を支配する『高い場所』、つまりジグラドとよばれる階段状の神殿に宿る」(ロバーツ前掲書、121頁)として、救いを求めたのである。厳しい自然が「喜びも悲しみも、すべての人間の感情が神に依存」(ロバーツ前掲書、120−1頁)するものとさせたのである。

 次に、このメソポタミアにおいて、チグリス・ユーフラテス川の灌排水が、塩害に対して功罪両面をもつことになった過程を見てみよう。

                                          1 塩害問題

 一般的に、土壌塩化物の生成と蓄積とは、「地殻の上層におけるさまざまな地球化学的変化ー降水や風化などの自然史的過程による」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、19頁)と言えよう。

 地殻の構成分子のうち、酸素(41.13%)、カルシウム(3,25%)、ナトリウム(2.4%)、マグネシウム(2.35%)、カリウム(2.35%)、水素(1%)、炭素(0.35%)、硫黄(0.1%)は、「塩基類と反応しやすい元素」(中島健一『河川文明の生態史観』19−20頁)である。また、地殻を構成する岩石はその「85%はアルミノ珪酸塩」であり、「アルミノ珪酸塩そのものは安定な鉱物であるが、水に反応しやすいために、たやすく風化」し、「とくに、炭酸(CO2)をふくんだ水にはすみやかに反応して、炭酸塩や重炭酸塩をつく」り、また「石灰岩や塩化物をふくむレスなどの堆積土」からも炭酸塩や重炭酸塩が作られる(中島健一『河川文明の生態史観』20頁)。こうした炭酸塩化物は、「乾燥・半乾燥地方の土壌や地下水」にひろく分布している。炭酸カルシウムは、炭酸と反応して重炭酸塩となり、「土壌水にすみやかに溶解」し、アルカリ土壌(土壌塩化物)となって、「農作物への毒性をつよめる」(中島健一『河川文明の生態史観』23ー24頁)ことになるのである。では、その毒性とは具体的にどいうことであろうか。

 第一は、植物蒸散作用の抑圧である。植物には酸性植物、塩性植物があるが、多くの農産物は前者の酸性植物であり、故に農産物の多くは「アルカリ土壌に敏感に反応する弱い植物」なのである。アルカリ土壌は、「水不足の場合のように、細胞液の膨圧を減少させて細胞の水収支の機作を阻害し、成長率を下げ」るのである。植物の生育に際して、「塩分をあたえると、ノーマルな要水量曲線(water-potential gradient)が変化して、細胞による塩の吸収がさかんとなり、細胞壁に塩を集積」し、「液胞の脱水をまねいて細胞液の膨圧が下がり、成長率が低下」し、「成長率の低下は蒸散作用の減少となる」(中島健一『河川文明の生態史観』29頁)のである。

 第二は、植物光合成の抑圧である。塩分は、「イオンの吸収作用を促し、植物の呼吸作用を増加する」が、光合成を低下させ、この光合成の低下は、「塩化条件での葉孔の閉塞によって、葉に入ってくるCO2への抵抗力を強めて、その生化学反応を妨げ」(中島健一『河川文明の生態史観』30頁)、植物を枯死させる。

 第三は、土壌老化による生産性低下である。乾燥・半乾燥地方の河川や地下水は、「多量の溶解した重炭酸カルシウムをふく」み、したがって「土壌の各層には毛管水の上昇によって多量の炭酸カルシウムをふくみ、炭酸カルシウムを表層に集積」し、「ステップや砂漠、レスには20%、ときには、80%もの炭酸カルシウムを含んでいる」のである。そして、「これらのタイプの土壌の物理的構造は、一般的には固結・単粒化し、作物の根の生育をさまたげ、灌水も通さ」ず、「気温の上昇は土壌のpH(7以下酸性、7=中性、8−15アルカリ性)をいっそう高め、かつ、土壌構造を単粒化し、土壌を老化させ、植物の生育・成長をいちじるしく阻害」(中島健一『河川文明の生態史観』24頁)するのである。アルカリ土壌にたいする農作物の生産性は、「アルカリ性土壌の播種量はそうでない土壌の2倍であり、アルカリ性土壌の収量はそうでない土壌の1/2−1/3」(中島健一『河川文明の生態史観』30頁)に低下するのである。

 このように、「乾燥・半乾燥地方の灌漑耕地では土壌の塩分量が農作物の収量を決定する重要な因子のひとつ」となる(中島健一『河川文明の生態史観』27−8頁) 。乾燥・半乾燥地方における植物の生育・成長は、土壌塩化物(特に最も一般的な塩化物はナトリウム塩化物とカルシウム塩化物)の影響を受けるのである。

                                         2 毛管水上昇・蒸発問題

 高温な乾燥・半乾燥地方では、「四季を通して、地表水や毛管水の上昇による蒸発がさかんであ」り、「その蒸発量は、亜熱帯の砂漠地方で年間平均3000mm、半砂漠やステップでは1000−1500mmとなってい」るから、「降水量がすくなく、蒸発量の多い地方では、表土と地下水との塩化物の交換がさかんとなって、さまざまな塩化物を表土に集積する」(中島健一『河川文明の生態史観』20頁)ことになる。

 さらに、地下水位が高くなると、「毛管水の上昇・蒸発」が促進されて、土壌のなかの塩類(炭酸塩・硫酸塩・窒素塩化物などなどのアルカリ・イオンの集積)が表土に著しく集積され、アルカリ土壌が形成される(中島健一『河川文明の生態史観』21頁)。従って、乾燥・半乾燥地方においては、「地下水位がたかく、土壌溶液の塩分量が多い場合、毛管水の上昇や植物みずからの蒸発散・根の活動などによって、土壌溶液は表層へ吸い上げられて、表土の老化現象はいっそう促進される」のである。盆地では「多量の鉱物をふくむ地下水層が分布」し、山岳地方の谷や河川の氾濫原やデルタでは「は地下水位が高く、塩化の主要な原因をなし」、「低地や盆地の古い地下水はその水圧が高いために、地表にたえずおしあげられて蒸発」し、地下水位のたかい湖岸段丘や海岸段丘も「塩化しやす」く、「高温・乾燥の地方では、地下水の蒸発がさかんになるため、塩化現象はいっそう促進される」((中島健一『河川文明の生態史観21−3頁)のである。

 しかも、アルカリ土壌地方の灌漑耕地は、自然的現象ばかりでなく、「灌排水システムからの浸水や漏水、農作物からの蒸散」、「灌水による洗塩」などもまた、「地下水位の上昇をまねき、その地下水の蒸発による塩害の危険をはらんでいる」(中島健一『河川文明の生態史観23頁)のである。

                                       3 灌水の問題性 

 「何百年もかかって大地から水を引き、農民や牧人の小さな村が点在するようになった頃、・・灌漑の技術が発明」され、「人々は、雨の少ない土地でも、灌漑によって水を確保すれば、肥沃な湿った土地の面積を広げることができることに気づき」、「大小さまざまな運河を網の目のように張りめぐらし、川から水を引いて」、「バビロニアでは農業の大規模化がはじまった」(ボッテロ『バビロニア われらの文明の始まり』26頁)のである。

 しかし、「余剰の灌水」は、「地下水位をたかめて塩害を招く」のである。もとより、「脱塩のための灌水量と農作物のための土壌湿度の保全とは、それぞれの地方の気象条件によって異なる」が、「乾燥・半乾燥地方の灌漑農法においては、灌漑用水は多すぎてもすくなすぎても、農作物の生育・成長を阻害」する。そして、灌漑用水の多いときは「地下水位を押し上げ、排水不良をおこ」し、「土壌の空気調節作用を弱める」が、灌漑用水の不足の場合には、「農作物の生育・成長をさまたげ、土壌水分の蒸発をさかんにして、作土の塩化を招く」(中島健一『河川文明の生態史観』43−4頁)のである。

  さらに、砂漠地方の泥灰土や氾濫原の沖積土などは、「灌漑によって、最初のうちはたかい生産性を維持することができる」が、「灌水のかけ流しのままでは、やがて数年の後に作土は塩化して、不毛の荒地にな」り、「灌水そのものが土壌の化学反応をさそって作土の二次的塩化をまねき」、「地下水を汲み上げて灌水しても、地下水そのものが塩分を含んでいるために、灌漑用水として不適当であり、作土の二次的塩化をはげしくする」(中島健一『河川文明の生態史観』54頁)jのである。この二次的塩化とは、灌水後に、「土壌微生物(アンモニア化成菌、窒素硝化菌・繊維素発酵菌など)の活動による窒素の増加がいちいるし」くなり、「NO3(硝酸)が過度に蓄積されてくると、硝酸塩による土壌の二次的塩化をまねく」[中島健一『河川文明の生態史観』45頁])ということである。

                                           4 排水の問題性

 排水の問題は、「現在においても複雑であり、きわめて困難な技術システムであ」り、「前近代社会では、排水システムには多大の手労働がともな」(中島健一『河川文明の生態史観』31頁)っていた。

 排水好立地の繁栄  自然排水にめぐまれた地型とは、「ゆるやかな傾斜のある山麓または丘陵斜面、水はけのよい高原、河岸段丘、沖積性の扇状地など」であり、「灌漑耕地の傾斜は0.2%程度がもっとも適当であり、4%をこえることは望ましくな」く、「0.1%以下の耕地は、かえって灌水の滞留をおこして、耕地の二次的塩化をまね」き、「傾斜の急な1.5%以上の地型では、腐植が流亡し、土壌侵食の危険性がある」のである。排水条件がよいと、「地下水位も深く、土壌のなかに灌水が滞留することもな」く、「土壌の塩類は降雨や灌水によってたやすく溶脱され」、「古代オリエント文明の初期をいろどる“肥沃な三日月地帯”(Fertile Crescent)、ナイルの河岸段丘に定住したエジプト農民、新石器時代のパキスタンや華北地方、沖積性の扇状地に立地した初期のシュメールなど」は「いずれも水はけのよい微高地を選んでいる」のである。しかし、「平濶な氾濫原に立地した都市国家時代のシュメールは排水に苦しみ、水利のための抗争がたえなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』32−3頁)のである。

 このように都市国家シュメールなどのメソポタミ地方の「中・南部の低地」は排水困難で塩害に見舞われたが、北東のアッシリア地方は、「降水量もやや多く、ザクロス山脈のゆるやかな斜面に恵まれて水はけがよく、地下水位も深」く、「それらの自然的な好条件のために」、「農耕地の塩化現象はさほどはげしいものではなかった」のである。従って、紀元前1300年(シャルマネセル1世)頃、「北東地方の小麦の収穫量は麦類の全収穫量のうちの25%以上をしめ」、紀元前500年頃、「なお小麦は18%の比重を維持」し、大麦は1haあたり1700リットルを維持していた。この頃、「中・南部の低地地方のかつての肥沃な灌漑耕地は、二次的塩害によって傷つき・・不毛の荒地」となって放棄され、アッシリア帝国はこの恵まれた自然によって「古代メソポタミア文明を最後まで支えた」(中島健一『河川文明の生態史観』85−6頁)のであった。

 灌水と排水のバランス 乾燥・半乾燥地方の畑作灌漑農法においては、「灌水と排水とが一つのバランス・システム(降水量+灌水量=蒸発散量+排水量±土壌保水量)として、農業生産力の保全とその維持・発展のために、不可欠の条件をなしている」(中島健一『河川文明の生態史観』54頁)のである。もし「乾燥地方の灌漑耕地では、灌排水のバランスが失われる」ならば、「土壌の塩化をすすめ、農業生産力の破壊にみちびく危険性をたえずはら」み、「この地方では、排水が適切でないと、耕地管理がたとい整備されていても、農地は塩化によって急速に荒廃」(中島健一『河川文明の生態史観』31ー2頁)するのであった。

 故に、灌水そのものが塩分をふくんでいなくても、「耕地に継続的に灌水していくと、その灌漑耕地はしだいに塩分を増して」ゆくので、「灌漑耕地の塩害防止には、灌排水のバランスと、灌排水による洗塩こそが前提条件であ」り、「土壌のなかの滞留水や地下水は、地表から蒸発する前に、排水溝から放流しなくてはならない」(中島健一『河川文明の生態史観』55頁)ことになるのである。

 そこで、的確な灌排水作業をすすめていくためには、「気温、降水量、湿度、蒸発量、風向などの気象的諸条件、灌漑用水の質と量(用水源が河川であれば、その季節的サイクルや河川レジーム)、地型や地質(土壌母材)、灌漑耕土の物理・化学的組成、地下水位とその水質、農作物の種類や要水量などによって、その作業労働力としての人口とその動員を可能にする」ことが重要になる(中島健一『河川文明の生態史観』54頁)。

 
                                        5 氾濫問題

 氾濫 
チグリス(1840km)・ユーフラテス川(3848km)はともにアルメニアを水源とする天井川であり、4月から6月にかけて雪解けによる氾濫を起こすのであった。

 両河川は、「北部山地の石灰岩や頁岩・泥板岩など、それらの母岩から風化した塩化物の多い表土をけずり、とかしこ」む。チグリス川は「多くの支流」をもっているが、「平原を流れるエウフラテス川には支流がない」のである。ユーフラテス川(ジェラブルスとラマデイの落差200m)・チグリス川(トルコ国境とバグダッドとの落差250m)の落差は大きく、「両河とも中流以上の流速がかなり早い」のである。「チグリス川の川幅はエウフラテス川より狭いが、その流水量はチグリス川の方が多」く、さらに「チグリス川の氾濫は不規則ではげしく、地方的な豪雨でも2−3時間のうちに水位をたかめ」、「1日のうちに、水位が2−3m上昇することも珍しくな」く、「両河とも流れが早いために、その流泥はナイル川の2−3倍あるいは4−5倍ともいわれ、四季をとおして濁っている」(中島健一『河川文明の生態史観』67−71頁)のである。

 ナイル川は、太陽と共に「信用」され、「エジプトの土壌を豊饒にし蘇生させるために、毎年増水し」、「安定した周期性」をもっていたが、これに反して、チグリス・ユーフラテス川は、「エジプトでは欠けていた威力と激烈の要素」があり、「人間のつくった堰堤を破り、人間のつくった作物を水びたしにし、彼らが予見できない気まぐれさで増水した(H.フランクフォートら、曽田淑子ら訳『古代オリエント文明の誕生』岩波書店、1962年、149−150頁)。特にチグリス川はまさに暴れ川なのであった。

 つまり、「チグリス川の氾濫はその流域をひろい地域にわたって水没させ、大きな惨害を与えてき」て、「しばしば流路を変えた」のであった。都市国家時代(紀元前2900−2500年)、「すでに両河とも、その河床や運河は耕地のレベルの上を流れる凸型の天井川となって」いて、特に「両河が接近する中流地方」や「チグリス川とディヤラ川の合流」する「河岸平野」では、「氾濫期の洪水や溢流がとくにはげしかった」ので、「農業殖民はデルタ地方よりはるかに遅れ」た(中島健一『河川文明の生態史観』67−71頁)。

 氾濫泥土の有害性 メソポタミア文明とは、以上見てきたように、当初から崩壊の要素をはらんでいたのであり、それは公害・自然破壊をもつ近代文明の危機構造と全く同じである。

 両河の運んでくる泥土には、「農作物の生育・成長のためにむしろ有害な塩化物が多く、ナイル川の氾濫レジームやその泥土の恩恵にはるかに及ばなかった」のである。しかも、「水はけの悪い低地地方」では「氾濫による滞留水の排水」が困難であり、「排水作業を怠ると、耕地がたちまち二次的に塩化する」(中島健一『河川文明の生態史観』80頁)のであった。メソポタミア低地地方では、「泥流を直接に耕地に引かないで、ひとまず運河に引きこんで泥流をおとし、沈殿させた後に、貯水池や盆地、または灌漑水システムに入れてためてお」(Oppenheim,A.L.,Ancient Mesopotamia:Portrait of a Dead Civilization,Univ.of Chicago Press,
1964, pp.41-42,84[中島健一『河川文明の生態史観』82頁])き、「ナイル河谷の貯留式灌漑のように、氾濫のさいの溢流をそのまま耕地へ導入することはできなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』82頁)のである。

 両河やその支流の諸河川は、「山岳地帯から多量の塩化物をふくむ泥土をはこび、ながいあいだにわたって低地地方に集積し、とくに、エウフラテス川にそうメソポタミア南部地方の農業生産力を破壊」(中島健一『河川文明の生態史観』99頁)した。ラガシのウルカギナ時代(紀元前2400年)の文書に、はやくも「耕地への塩化物の集積による危険性」が指摘され、農民たちは、「エウフラテス川ぞいに北上するか、もしくは、チグリス川ぞいのザクロス斜面に新しい農耕地をもとめて移住」しようとした(中島健一『河川文明の生態史観』99頁)。

                   
                                      6 灌漑権力問題

 
チグリス・ユーフラテス川流域での小麦・大麦栽培には、上述の通り塩害などの諸問題を内包していたから、その塩害に対処することは不可欠であった。農業生産規模が大きくなり、人口が巨大化して、国家が成立してくると、国家の主要任務の一つが、こうした灌漑諸問題の対処となったのは当然の成り行きであった。しかし、灌漑が、権力興亡に巻き込まれて、推進されたり、中止されたりするという問題に直面することになる。

                                         @ 祭司の専制君主化

 メソポタミの王の祖先は原始民主制下での祭司だったようだ。初期王朝期(前2800年ー前2350年)には、「エンシとかルーガルの称号をもった都市国家(ペルシァ湾から、エリドゥ、ウル、ラルサ、ウルク、ウンマ、ラガシュ、アダブ、イシン、ニップル、キシュ、バブロンなど)の君主」(中原前掲論文、335頁、など)が登場した。やがて「王と最高の祭司」が分離して、「エンが祭司長」を示し、「王名表に出てくる支配者はルガールの称号」(H.ウーリッヒ前掲書、117頁)をもつようになる。

 ルーガルは、エンに比べて、「もっと世俗的な任務」を帯び、「戦争がおこったときに軍事指導者が長老会によって選出されたのがルガルの起源だった」(マイケル・ローフ前掲書、82頁)と推定される。そして、ルガールは、「彼の政治権力が及んでいた範囲内でのみ、そう呼ぶことができ」、敵対地域では「単にエンシと看做されていた」(H.ウーリッヒ前掲書、118頁)。初期王朝末までには、二三の都市で、「世俗的職務と宗教的権限が分離していたが、しかし世俗の支配者は神の代行者としてのみ権力を行使するという観念そのものは、メソポタミア文明の最後の最後までまもられ」ていた。「支配者は神の代理人で、程度の差はあれその町の主神殿の財源を監督」(マイケル・ローフ前掲書、82頁)した。こうして、シュメールでは、王は「エン、ルガル(唯一の王)、エンシ(服属する都市支配者)」(前田前掲書、32頁、前田徹「シュメールおける地域国家の成立」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』54、2008年)などの称号をもち、「国土の安寧と豊饒に責任をもつ」(前田前掲書、29頁)ことになった。「軍隊の司令官が平時にも権力を手放さず」、「従来の『神官兼支配者』ではない新しいタイプの王が登場」(J.M.ロバート、青柳正規監訳『世界の歴史』創元社、2002年、130頁)したのであった。

 各都市にはそれぞれ守護神がいて、シュルバク市にスド神、ギルスにババ(妻)とニンギルス(夫)、キシュにザババ、ウルクに女神インナン(他に「神々の女主人」アン(天空の神)の主神殿もあった)、ニップールにエンリル(大気の神)、エリドゥにエンキ(「大地の主人」、知恵と呪術の神)、シッバルとラルサにはウトゥ(太陽神で正義を司る神)、ウルにはナンナ(月の神)などがいた(マイケル・ローフ前掲書、83頁)。

 外部からの絶えざる危険は、「神およびその代理人としての祭司王の権力を増大させ」、「王は、神によって定められた町の第一人者の地位から、次第に絶対的な支配者とな」り、「その機能は宗教的な領域から、ますます世俗的な領域へと移って」ゆき、神殿では「副祭司が王の仕事を代行」し、「ジグラッド(運河支配権の象徴)や神殿」とならんで建設された宮殿で統治するようになった。これは、前2800年シュメールの初期王朝頃に「はっきりと認められ」、以後、「神話と史実が明瞭に分かれ」、「神話は、国民が知らないうちに、支配者の手の中で権力保持と権力拡大の道具」(ヘルムート・ウーリッヒ、戸叶勝也訳『シュメール文明ー古代メソポタミア文明の源流』祐学社、1980年、75−6頁)となり、それを表すのがジグラッドであった。

 こうして、紀元前2800年頃には、祭司は「神殿の財産から私有財産を引き出し、やがて大土地所有者」となり、人々を服従させ、「階級的身分国家」が誕生したのである(H.ウーリッヒ前掲書、23頁)。「神官(サンガ、ヌバンダ)はやがて、都市国家の首長(エンシ)とな」り、「共同体の統率(耕地割当てや賦役の管理)、常備軍の指揮、財政を自らの手で行ない、神殿の周囲に宮殿を営むようにな」り、「エンシを軸として城壁によって強固に守られた君主政都市国家」が誕生した。ウンマ、ラガシュでは、「都市間の紛争の激化が非常時の全権を掌握した独裁官(ルガル)の選任を必要」(小川英雄『古代オリエントの歴史』20頁)とさせた。

 ウルク第二王朝初代エンシャクシュアンナが初めて「国土の王」を名乗り、ウルク第三王朝ルーガルザッギシは二番目に「国土の王」を名乗ってシュメールを統一した。ルーガルザッキシ碑文によると、「全地の王エンリル神からシュメールの支配権を正式にあたえられた『国土の王』となり、エラムからシリアまで「貢納」を課し、ペルシァ湾から地中海まで「国は喜びの水で灌漑され」、人口を増加させた(中原前掲論文、343−4頁)。都市国家の上位に君臨する領域国家の王は、「最高神エンリルから地上の支配権を委任されており、彼に敵対することはエンリル神が定めた秩序の破壊者とみなされ」(前田前掲書、47頁)ていた。

                                      A 専制
権力の灌漑強制 

 メソポタミアでは、「たえず浚渫したり、新しい運河を造成しなくてはなら」ず、「年中行事として、莫大な集団労働が必要」となった。メソポタミアでは、「冬作物の登熟や夏作物の播種・生育・成長などを順調にすすめていくためには、氾濫のさいの溢流を貯え、調整し」、また、「氾濫の危険と農作物の塩害をさけるために」、灌漑と排水(「作土の保全と水収支[Water balance])に「不断の努力をつづけていかなければならなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』83頁)のである。

 ここに、中島健一氏は、ウィットフォーゲル著、アジア経済研究所訳『東洋的専制主義 : 全体主義権力の比較研究 』論争社、1961年 (Oriental despotism : a comparative study of total power、Yale University Press、1957)などの影響を受けて、古代メソポタミアでは、「必要悪としての、強大な支配権力ーいわゆる“アジア的な”専制主義の形成と発展は、農耕地の塩化の危険とたたかい、農作物の生育・成長に必要な土壌湿度を保ち、農業生産力を維持・発展させていくためには不可欠の政治的条件であったにちがいない」(中島健一『河川文明の生態史観』35頁)とする。彼は、「灌漑耕地の二次的塩化をやわらげ、生産性を維持し・増加させていくために、灌排水システムの造成や修復などのきびしい強制労働の徴発に甘んじ、政治的な必要悪としての専制体制(despotism)に妥協したにちがいな」く、「灌漑耕地の二次的塩化という恐るべき危機をさけるためにも、支配権力・・河川灌漑の“総請負人”のまえにひざまずき、“全般的に奴隷化”して、圧制と収奪にたえ、生きていくために、灌排水システムの水収支の整合に苦難な集団労働をささげてきた」(中島健一『河川文明の生態史観86−8頁)と推定するのである。民衆が諦観したのか、権力が存亡をかけて民衆を抑えて使役したのかといえば、実体は後者であろう。

 また、ボッテロも、「運河の掘削と維持という事業は、莫大な労働力を要しただけでなく、仕事の計画を立て、それを遂行させるだけの力をもった中央集権的な指導組織を必要」とし、小規模な「最古の都市」をもたらしたと主張する(ボッテロ『バビロニア われらの文明の始まり』28頁)。古代権力専制化の必然性と灌漑事業を結びつけることは、よくなされていることではある。

 しかし、専制権力でなければ、灌漑を行い得ないというものではないのである。実際、メソポタミアでは、当初は神殿共同体が灌漑を行っていた。神慮に通じた神官が神の代弁者として、「共同体、特にその灌漑事業の指導者」となり、「神殿を中心」に都市共同体があらわれ、ゆえに「灌漑農耕」を目的とする「神殿共同体」として機能していたのであった(小川英雄『古代オリエントの歴史』20頁)。「神が共同体の土地の地主であり、神殿はそれを灌漑によって経営」し、この神的所有地は、「市民の賦役によって維持された共用地」、「市民への割当地」、「小作料をとる小作地」の三つに分かれていた(小川英雄『古代オリエントの歴史』20頁)。また、都市国家形成期には「市民の会議が国王の諮問機関の役割」をしていたから、民主的に灌漑が行われていたであろう。

 権力が、「荒れがちな河川の水収支を調整・管理して、営農のための生産手段に組み入れ、氾濫原の農業生産力を安定させるためには、灌排水作業のための多数の労働人口とその労働力の動員」を行えるのであれば、専制的形態をとろうが、民主的形態をとろうが構わないということである。メソポタミアの王国では、前者の専制形態をとって、必要業務の一つとして灌漑事業を行ったということである。灌漑は、「エジプトとメソポタミアできわめて大きな役割を演じており、各定住地とその隣接の定住地との依存関係を生み出しているために、社会的および政治的結合を大いに推進させた一つの要因」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』38ー9頁)にしか過ぎないということなのである。この点は、中島氏自身も、シュメール、アッカド(Summer Akkad)の支配者は、「戦争の勝利」、「神殿の造営」とともに「治水事業の完成」を重要事業としたと指摘している(中島健一『河川文明の生態史観』91頁)。灌漑治水の必要が専制権力を必要としたのではなく、専制権力の主要任務の一つが灌漑治水であったというに過ぎないのである。

 内憂外患への対処過程で特権階級が権力を掌握してゆくと、専制君主となって富の収奪に着手するのである。その専制権力が、塩化対策として灌漑を行いつつも、農業生産力増加、人口増加の悪循環で塩化被害が大きくなってゆき、かつ内憂外患に対応しきれず、やがて弱体化してゆくことになる。灌漑規模も大きくなると、こうした弱体化した権力では危機に対応できずに、ここにメソポタミア文明は衰亡してゆくことになるが、その過程でも農業生産力・人口は着実に増加してゆくのである。問題や矛盾を孕みつつも、メソポタミアでは、権力興亡と灌漑推進・中断を繰り返しながら、長期的には農業生産力や人口は増大するのである。以下、この過程を瞥見してみよう。

 以下、各権力と灌漑との関係を瞥見してみよう。
 
                                         B シュメール都市国家分立 

 メソポタミアに「富と権力」を基軸とする文明が成立したことの具体的根拠は、農業生産・人口増加を基盤とした領域国家の登場である。ぞして、メソポタミアでは、農業発展には灌漑が重要であったから、領域国家の主務の一つは灌漑となり、これを怠ったり、失敗すると、衰退を余儀なくされる。或いは、権力が異民族侵入・謀反などそれ以外の理由で衰退すると、灌漑は中断された。

 まず、シュメール人は、前3200年前から「ウル第3王朝が崩壊する前2004年」まで「世界最古の文明を築き上げ」(ジャン・ボッテロ、ら前掲書、60頁)たので、これから見てみてみよう。

 大洪水と王の変質 初期王朝時代になると、「楔形文字で書いた文書が残るようにな」り、特にシュメール王名表が重要である(マイケル・ローフ、松谷敏雄訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、83頁)。

 前3000年頃作成の「シュメル王朝表」によると、「王権が天から降下したのち、エリドゥが王権の座になった」(小川英雄『古代オリエントの歴史』慶應出版、2011年、17頁)。大洪水以前の初期王朝時代Tには、8人の王が241,200年君臨したことになっている。しかし、「考古学的調査によると、ウル、キッシュ、シュルッバクには、積み重なった生活層の間に、厚い泥土の堆積を示す層」があり、「洪水前に記録された王朝のはじまりは前3000年頃で、それが約200年続」いたと推定される(小川英雄『古代オリエントの歴史』慶應出版、2011年、18頁)。シュメ-ル王朝表によると、[大洪水ののち、王権は天からキッシュに下った」後、「約250年間は、東方のエラム人との戦いばかりでなく、シュメル人諸都市の対立抗争に費やされ」、まだ統一する王朝はあらわれなかったとある(小川英雄『古代オリエントの歴史』19頁)。

 また、この王名表によれば、「大洪水以前の王様はすべて数千年の寿命持っている」が、「大洪水後になると、一番長い場合で1200歳であるが、たいては500歳にも達していない」。これは、王が大洪水後には、「不死性を失」い、「もはや都市の守護神と同一視されていた祭司王ではなくなった」事を意味するのである。「彼らの影響力の重心が世俗的な事柄へと移り、したがってその祭司としての純粋潔白性が失われるに及んで、彼らも死すべき存在となり、他の人々と変わらぬ人間になった」(H.ウーリッヒ、戸叶勝也訳『シュメール文明』祐学社、1980年、64頁)と言われる。それでも、一般人に比べれば、寿命は数倍も長いのである。これは、この王名表作成が王朝正当化を主目的としていたように、諸先王を神格化して正当化するためであった。

 シュメール王名表によれば、大洪水以後の初期王朝時代Uには、キシュ第一王朝、ウルク第一王朝、ウル第一王朝が触れられ、初期王朝時代Vでは、アワン王朝、キシュ第二王朝、ハマジ王朝、ウルク第二王朝、ウル第二王朝、アダブ王朝、マリ王朝、キシュ第三王朝、アクシャク王朝、キシュ第四王朝、ウルク第三王朝、アッカド王朝、ウルク第四王朝、ウルク第五王朝(グティ時代)、ウル第三王朝、イシン王朝が展開していた。ここには、ラガシュ王朝が記載されていないが、当時の有力都市国家の一つであった。

 ラガシュ朝 南部メソポタミアには多くの都市国家が並立し、「耕地争奪戦や覇権獲得戦がさかんにおこなわれ」、「その結果、衛星国家になるものや、同盟をむすぶものもあ」(中原与茂九郎「発掘と解説の物語」・「歴史はシュメールにはじまる」[貝塚茂樹編『世界の歴史』中央公論社、昭和42年、336頁])った。「キシュ、ウルそしてウルクの三都市の間で、南メソポタミアの覇権をめぐって政治的な混乱と血なまぐさい戦闘が行われていた」(H.ウーリッヒ前掲書、118頁)。

 ラガシュはそうした有力都市国家の同盟国であり、前2494年にウル・ナンシュがラガシュ王朝を創始した。前3千年紀(前3000ー前2001年)頃には、ラガシュの国は、「それぞれ神殿を中心として一団をなす富裕な小さないくつかの市から成り立っていた」(サムエル・ノア・クレーマー、佐藤輝夫ら訳『歴史はスメールに始まる』新潮社、昭和34年、52頁)。灌漑については、温暖・乾燥化のはじまり、「王たちは灌漑運河の建設にきわめて積極的」(灌漑運河第一の復興期か)となり、紀元前2600年、「ラガシのウル・ナンシュ(Urnanse)は多数の溜池や運河を創設」した(中島健一『河川文明の生態史観』92頁)。

 ウル・ナンシュから三代目の王エンメテナは、ウルクと「兄弟のちぎり」を結び(中原前掲論文、340頁)、「グ・エディン平野(「よく開墾された最上の耕地」、「ラガシュの主神ニンギルスの神殿領」がある。『旧約聖書』の「エデンの園」の名の出所)をめぐってラガシュとウンマとの間に約200年」戦争を起こした(中原与茂九郎「発掘と解説の物語」・「歴史はシュメールにはじまる」[貝塚茂樹編『世界の歴史』中央公論社、昭和42年、337頁]、前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、38頁)。彼以後「ラガシュは相対的に力を弱め」(前田前掲書、34頁)る。ラガシのエンテメナ(Entemena)は「シャトエル・ハアイ(Shatt el-Hai)という巨大な運河を掘」り、紀元前2400年、「ラガシのウルカギナ(Urukagina)も・・多くの運河」を開いた(中島健一『河川文明の生態史観』92頁)。
 
 ラガシュ8代王ルガル・アンダは、アダブと同盟関係を結び、「親善友好の贈物交換」をするが(中原前掲論文、340頁)、「ルガル・アンダの9年間にわたる統治期間についての報告はすべて、不法行為の記録で埋ま」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』163頁)ることになった。富が増加して、「覇権と経済的支配権をめぐって、到る所で王と祭司層との間に苛烈な戦いが続いていた」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』163頁)。権力及びそれに連なる支配階級は、ますます人民収奪によって致富してゆく。

 やがて、ラガシュは、「非常に弱体化し、北方の飽くなき敵国ウンマのために正に餌食になろうとしていた」(S,N.クレマー前掲書、53頁)。つまり、「無慙な戦争とその悲劇的な結果」から、支配者は、「軍隊を強化し、兵士に武器と装備を支給するために・・市民の基本的権利を犯し、市民の財産を極度に貧困化するような重税を課し、神殿占有の財産を剥奪」したのである。戦時中は不満を押さえれていたが、平和回復後もこの専制を持続することに対して、市民が立ち上がる。

 つまり、ラガシュ市民は、これに「非常に悩まされ、圧迫を受け」、ついに「古いウル・ナンシュの王室」を放逐し、別家系から支配者ウルカギナ(ラガシュ第1王朝最後の王)を選んだ。彼は、「ラガシュの法を再興し、条令を定め、市民の<自由を確立した>」(S,N.クレマー前掲書、52頁)のである。ラガシュ王ウルカギナ(紀元前2400年頃)は、「不正と苛酷の源泉となっていた収税代行制度」(中原与茂九郎「発掘と解説の物語」・「歴史はシュメールにはじまる」[貝塚茂樹編『世界の歴史』中央公論社、昭和42年、341頁])を廃止し、職人の「祈りの税」を廃止し、埋葬手数料を減額し、「船乗りの船の査察官を廃止」し、「牧畜者の家畜の査察官を廃止」し、徴税人を廃止し、離婚税、油税、埋葬税なども廃止した(S,N.クレマー前掲書、54頁)。こうして、ウルカナギは、「『ラガシュの市民の自由を確立した』」(S,N.クレマー前掲書、55頁)が、彼の改革は、ウンマ国王ルーガルザッギシの襲撃で頓挫した。治世僅か10年に過ぎず、「ウルカナギとその改革は間もなく<風とともに>消え去った」(S,N.クレマー前掲書、55頁)のである。

 ウルク朝 前4千年紀(前4000−3001年)、メソポタミア南部で、農業が都市国家を生み、「生活の基盤を農業においていない」「多数の人間を扶養しだした(マイケル・ローフ、松谷敏雄訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994、58頁)。

 シュメール王名表によると、エリドゥ、バド・ティビラ、ララク、シッバル、シュルッバクの「五つの都市が終わった後に大洪水が来て、その後、最初の王権がキシュに降りた」(松本健「キシュ」発掘記[(吉村ら編前掲書、140頁)])ことになっている。次に登場した王朝が、ウルク第一王朝である。

 ウルク遺跡から、「王を示す称号エンを示す文書」が出土して、この頃には王権成立が確認される(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、7頁)。このエンは、「ウルクの王を示す場合に限られ」(H.ウーリッヒ前掲書、117頁)ていた。「壮大な神殿跡も確認」(前田前掲書、7頁)され、「祭司出身の王の下には、農民、羊飼い、職人と並んで、数多くの神殿奉仕者がいたが、彼らはすべての物資の獲得と公正な分配に従事」(H.ウーリッヒ前掲書、30頁)した。

 そして、ウルク第二王朝の初代王エンシャクシュアンナは史上初めて『国土の王』を名乗ったと言われる(前田前掲書、44頁)。彼は、キシュ市を攻撃し、シュメール統一の第一歩を歩みだした。

 前3000年頃に、農産物出入りを扱うために、「広大な神殿領域」に「文字と計算」を伝える学校が「職業訓練所」として設置され(H.ウーリッヒ『シュメール文明』130ー1頁)、「神殿書記の任務は・・経済行為」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』131頁)となった。「都市守護神の代理人」である王は、「宮殿の宝物を・・私物視」し、祭司・公務従事市民(官僚か)などと「共謀」して「神殿財産の中から私的財産を引き出」していた(H.ウーリッヒ『シュメール文明』125頁)。「王と祭司」は「神殿所有地の三分一を賃貸」し、収穫の三分一を地代として要求した(H.ウーリッヒ『シュメール文明』125−6頁)。こうして、シュメールの都市には、「財産を所有する富裕な階層」として、王家(「今や公然と神々の所有物を自己の私有財産と見倣すようになった」)、祭司階級(「可能な限りのものを吸い取っていた」)、市民階級(「知恵と勤勉によって富を獲得した人々」)が生まれた。この対極に、奴隷、建設労働者、農業労働者、家畜番がいた(H.ウーリッヒ『シュメール文明』126頁)。

 さらに、シュメールは高い農業生産力を根底に手工業者を引き寄せ、シュメール人はヒマラヤ杉(レバノンから陸路で輸入)、糸杉(アルメニア山地)、黄楊・黒檀(ヌビア)などの「建築用資材」、「家具、容器、壁板、象嵌細工、手工芸器具、漆器」など用の加工材料、銅(エラム、小アジア)、銀(クリミア地方)、金(エジプト、小アジア、インド)の「金属加工」材料、紅玉髄・緑柱石・碧玉・トルコ石・ラピスラズリなどの「装身具や高価な象眼細工」材料を輸入し(H.ウーリッヒ『シュメール文明』134頁)、加工業者の作り出した高度な製品を各地に輸出した。道路は「巨大なアジア大陸を横断して、地中海沿岸およびエジプト支配下のシナイ半島から、インド乃至中国にまで達し」、この沿道の地域の中には「隊商から高い関税を取り立てて生活」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』135頁)するものもあった。「交通の要衝や特に危険な地域に植民都市」をつくり、「戦闘的な遊牧民、追い剥ぎ、強盗」などから隊商を守り、「危険は目に見えて減少」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』135頁)した。そして、「取引は今や都市が直接行なうのではなく、国際的な貿易会社を通じて行われるようにな」り、「そういう会社は・・ペルシア湾の港に倉庫を持っていた」ので、会場貿易の比重が増加した(H.ウーリッヒ『シュメール文明』136頁)。前3000年頃のシュメール碑文によると、東方海路上の物資積み替え地として、ティルムン島(バーレーン)、マガン(オマン沿岸と推定)、メルッハ(パキスタン沿岸かインダス河口)があった(H.ウーリッヒ『シュメール文明』136頁)。

 ウンマ国王ルーガルザッギシは、ラガシュに戦勝し、ウルクを征服し、ついで「五十の市を従属させる覇王」(中原前掲論文、343頁)となって、ウルク第三王朝を開いてた。ルーガルザッキシ碑文によると、ルーガルザッキシは「全地の王エンリル神からシュメールの支配権を正式にあたえられた『国土の王』となり、エラムからシリアまで「貢納」を課し、ペルシァ湾から地中海まで「国は喜びの水で灌漑され」人々を増加させた(中原前掲論文、343−4頁)。「都市国家の上位に君臨する領域国家の王は、最高神エンリルから地上の支配権を委任されており」、故に「彼に敵対することはエンリル神が定めた秩序の破壊者とみなされ」(前田前掲書、47頁)たのであった。ルーガルザッキシは、「北方(セム系)から迫りくる危険」を察知し、「周囲を堅固な城壁で護られ」たウルクに居を定めた。

 しかし、北方のセム系キシュの新王(庭師から登用されたウルザババ王元臣下)シャルケヌが蜂起し、投げ槍・弓矢で武装した「足の速い荒野の軍隊」でウンマを襲撃し、ルーガルザッキシを捕虜にした(H.ウーリッヒ『シュメール文明』181頁)。

                                         C アッカド王朝

 サルゴン大王 「静的で極めて古い都市同盟によって代表されてきたシュメールの秩序」が、「動的で遊牧民的気質をもったセム人の力の前に屈服」したが、シャルケヌは「シュメールの王」を名乗って、「シュメールの精神的遺産ー言語、文学、芸術」を引き継いだ(H.ウーリッヒ『シュメール文明』181ー2頁)。シャルケヌは、「ルガル・ザグギシをエン・リル神殿(ニップール)前でさらしものにし」て処刑し、「全土の王」を称して、「全メポタミアの支配者」になった(H.ウーリッヒ『シュメール文明』182頁)。彼がアッカドのサルゴン大王になる。

 アッカドのサルゴン大王は、庭師などからの成りあがりであったが、自らをシャルキンと称し(「『旧訳聖書』にでてくるヘブライ語名」、アッカド語でシャルキン、「正しい王」の意味[(岡田・小林前掲書、75頁)])、イアンナ女神(バビロンのイシュタル神)を守護神とした。「すべての都市国家群を統合して、全メソポタミアを支配」したが、王の「重要な義務」の一つは、「堤防や運河の築造」、「灌排水路網の建設と維持」であった(中島健一『河川文明の生態史観』91−2頁)。

 サルゴンは、首都アッカドと「ペルシァ湾と結ぶ立派な大運河網を築」き、「マガンやメルーハ(ともに東南アラビア)からの船がアッカドの波止場に繋留し、荷降ろしをし」、これによって「首都は商業の大中心地となり、経済的大帝国の心臓部」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』192頁)となったのである。「アッカドの力の源は強大な軍事力にばかりでなく、交易にもあった」(小川英雄『古代オリエントの歴史』23頁)。アッカドは、「絶え間ない戦闘と殺戮を通じて、アカデの町の周囲に存在していた都市国家を集め、一つの王国に作り変えたばかりでなく、この王国のまわりにも、すべての、あるいはほとんどすべての隣接地域を併合」(ジャン・ボテロ前掲『バビロンとバイブル』、156頁)した。「都市から司法権、軍事権を奪」い、「悪化する塩害に対抗する灌漑農耕の再組織化」との関連で全国共通の暦を採用した(小川英雄『古代オリエントの歴史』23頁)。

 しかし、アッカドは「基礎の弱い帝国」(岡田・小林前掲書、75頁)であった。そもそもアッカドとは、サルゴンが拠点とすべき都市をもたなかったので、「臣下や軍隊の集結地」として、「サルゴンが創設した首都」らしいものなのである(H.ウーリッヒ『シュメール文明』187頁)。アッカドがもたらした「自然の要害なく繁栄すること」は、「安易な略奪の可能性をもって山岳人種や草原民族を誘惑」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』114頁)したので、サルゴンや後継者は、「山岳人種を抑圧するための連続した組織的な攻撃」をおこなった。まさに、「帝国主義だけが平和の保証」(H.フランクフォートら、曽田淑子ら訳『古代オリエント文明の誕生』岩波書店、1962年、114頁)だったのである。

 サルゴン大王には、塩害に対応するための灌漑農耕の再組織化の動きはあったが、彼の後継者は反乱鎮圧・遠征などに腐心して、灌漑農業の積極策の動きは見られない。

 リームシュ 2代王リームシュは、「父親が絶えず困難に直面していた国境地帯ばかりでなく、国土の到る所で反乱」に直面し、「アダブ、ラガシュ、ウンマ、ウルそしてウルクの各地のエンシは立ち上が」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』192頁)った。サルゴンは、「帝国創立者の政治家としてのあらゆる巧妙さ、腹心の家来の用心深い分配(配置か)、そしてシュメールの伝統を壊すような厳しい措置」をしていたが、「後継者の代になるや暴動や反乱は頻発し」、「リムシュはこれを抑える能力を持っていなかった」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』193頁)のである。彼は、都市の反乱住民を皆殺しにして、エラムにも「情け容赦なく鉄槌をふるった」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』193頁)のである。

 しかし、「9年にわたる血塗られた統治期間の後に、彼は宮廷革命の犠牲として倒れ」てしまった。「シュメールとアッカドに起こった反乱を鎮圧」し、エラム、マルハシを征服したが、宮廷陰謀に巻き込まれ暗殺されてしまったのである(マイケル・ローフ前掲書、98頁)。「アッカドにおいては、新王の即位ごとに国(地方yか)は反乱をおこし」、「ひとびとはサルゴンの興隆以前の支配形態である地方自治への復帰を試みようとした」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』115頁)のであった。

 末端の行政機構は、農民要求に従って灌漑事業は継続していたであろうが、度重なる地方反乱で、国家としては灌漑をおろそかにして、軍事的拡充を主務とせざるを得なかったであろう。

 マニシュトゥシュ 3代マニシュトゥシュ(サルゴンの年下の息子)は、「兄と同様・・暴君の道を歩」み(H.ウーリッヒ『シュメール文明』193頁)、「ペルシァ湾の彼方にある銀山まで遠征」し、アンシャン、シェリフムまで征服し、アッシュールも支配した(マイケル・ローフ前掲書、98頁)。彼もまた「宮廷革命の犠牲」となった。

 ナラム・シン 4代王ナラム・シン(マニシュトゥシュの息子)は、前2254年頃即位と同時に各都市に「大衆の暴動」が起き、「彼は絶えず帝国の崩壊を食い止める仕事で手一杯」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』194頁)となった。「特にザグロス山地において、彼の国土を常に脅かしていた野蛮な山岳民族との戦いを繰り返し、しかも同王(ナラム・シン)の軍隊はその度に多大な兵力の損失を蒙っていた」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』195頁)。「短期間ではあるが、その最大の版図」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』194頁)に達し、史上最初の「四方世界(シュメル、アッカド、アムッル、アッシリア)の王」となって、キシュとウルクを首謀者とする反乱が起こると、これを鎮圧し、「短弓を駆使」し、「東北方の山岳地帯に遠征」して、「全メソポタミアを武力で制覇」(前田前掲書、48頁、(岡田・小林前掲書、79頁)した。

 彼は、「強者にして四方世界の長」という称号を好んで用いた。これは、「以後メソポタミアの大君主の伝統的称号」(中原前掲論文、346頁)となる。ナラムシンは、「生存中、その官僚から神格化された最初の君主」(中原前掲論文、346頁)であり、「自らを神とし」、メソポタミア史上「はじめての王の神格化」(前田前掲書、48頁)を図った。ナラム・シンは「生前から神であることを主張したメソポタミア初の王者」(マイケル・ローフ前掲書、98頁)となったのである。逆に言えば、版図拡大は反乱要素の増加を意味し、それだけ反乱への王・重臣の不安心理を強めたから、王・重臣は地方貢税で軍事増強を図るのみならず、人民を精神的にも服属させ、不安を緩和するためにも、王を神にして、未然に反乱を防止しようとしたともいえよう。
 
 ナラムシンの遠征によって、「地中海沿岸からアナトリアにかけての地域との交易も活発化して、地中海方面への交易路が東方交易に肩を並べるほどに重要になり、結果として、西アジア全域を対象とした交易圏が成立した」(前田前掲書、52頁)のであった。しかし、「東方のエラムの地でも、新たな勢力がアッカドの支配を脅かし」、やがて「ナラム・シンとの間に条約を締結することによって、権力を獲得する方法をとった有能な新王が、エラムの側に現われ」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』195頁)た。

 資料的には灌漑積極化を示すものはないようだが、こうした交易拡大を基底で支えたものこそ、農業生産であったから、通常農業に必要な灌漑は維持されていたのであろう。

 シャルガリ・シャルリ ナラム・シンが37年間の統治の後に死去すると、「帝国は解体寸前の状態」にあり、5代国王に即位した息子のシャルガリ・シャルリは「偉大な称号」は避け、ただ「アッカド王という控え目な称号」にとどめた。エラム王は独立をはたし、ウルクも「広範な独立を獲得し」、「南部の諸都市でも不穏な動きが続いた」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』196頁)。5代王シャルガリ・シャルリが25年間統治したのは、「驚くほどよく訓練された軍隊と網の目のように張りめぐらされた諜報網」と、「無数の小都市国家に分裂」するよりは「境界のない大帝国」の方が取引に好都合とする「輸出入業者、商人、企業家、船主など」の支持があったことによる(H.ウーリッヒ『シュメール文明』196頁)。

 死後、西はマルトゥ人の諸部族、東は山岳住民(グティウムの蛮族)の圧力を受け(マイケル・ローフ前掲書、99頁)、「王権は衰弱」し、前2150年、「ザグロス山中の蛮族グチ人」に滅ぼされた。以後、2人のグティウムの王が91年間統治したが、支配は「全メソポタミアに及んだ」のではない(H.ウーリッヒ『シュメール文明』206頁)。ウルクは「すでにシャルカリシャリ王の時代つまりグティウムの軍隊が国中に溢れる以前の時代に、アッカドの支配から離れていたよう」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』206頁)で、「ウルクのエンシ」ウトゥ・へガルはこの「山岳の毒蛇」(中原前掲論文、348頁)を打倒した。「200年以上にわたる絶えざる戦闘と紛争の繰り返し」でメソポタミアは疲弊していたから、このグティウム打倒で「メソポタミア全土が安堵の胸をなでおろした」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』208頁)のであった。7年後には、ウル代官ウル・ナンムによってウルク王位が剥奪された。 

 灌漑農法よりも軍事的征圧に忙殺された王政は、通常的灌漑は維持したであろうが、積極的に灌漑を推進する余裕はなく、アッカド王朝期は基本的に経済的には不安定だったと言えよう。

                                    D ウル第三王朝(シュメール系) 

 アッカド王朝が「一地方政権に衰退」すると、上述のようにウルクとラガシュに「独立政権」が生まれ、「その間隙を縫って異民族グティが侵入」したが、ウルク王ウトゥヘガルがグティを撃退し、「彼の将軍であったウルナンムがウルに都をおいて」(前田前掲書、53頁)、前2100年頃、「官僚制を強化した集権的統一国家」のウル第三王朝を樹立した(中原前掲論文、348頁)。これは、最後のシュメール王朝となる。

 ウル・ナンム ウルク王(ウルク第五王朝)ウトゥ・ヘガルが死亡すると、ウル・ナンムは彼の王位を継承した。そして、ウル・ナンムは「ウルの犠牲」で勢力膨張していたラガシュの討伐が必要だとして、ラガシュを攻撃し、支配者ナムハニ(ラガシュ第2王朝の最後の王)を殺し、「旧版図を回復」した(S,N.クレマー前掲書、59頁)。ウル・ナンムは、国王は「強き人、ウル王、シュメール・アッカード王、四方世界の王」の称号をもって首都ウルのエ・フルサグ宮殿から全国を統一支配した(中原前掲論文、348頁)。ここに「領域国家を核として周辺異民族をも組み入れた統一国家がウル第三王朝時代に確立」(前田前掲書、11頁)した。彼の支配領域は、ウル、ウルク、エリドゥであり、「ニップール、ラルサ、ケシュ、アダブ、ウンマでの建設活動が知られ」、「ギルタブ、アビアク、マラド、アクシャクなど北アッカド地方にあった都市国家間の紛争を仲裁」(マイケル・ローフ前掲書、100頁)した。

 彼は、「アッカド的な支配」を受け継ぎ、「ほかの都市に代官や守備隊を置」(小川英雄『古代オリエントの歴史』24頁)いた。「シュメール・アッカドの王」という称号は、「サルゴン大王の支配以来、セム的な要素が南部の諸都市においても次第次第に浸透」したことを反映したものである(H.ウーリッヒ『シュメール文明』217頁)。しかし、「アッカドほどの武力上の優位は保って」おらず、「グティの脅威は依然として続いていたし、中流域以北の都市や民族、東方のエラム人とは同盟関係によって勢力が維持」(小川英雄『古代オリエントの歴史』24頁)されていた。

 彼は、首都のウルに神殿やエン神官の住居、王宮」を建て、「町を囲む周壁の再建、運河の掘削」に従事した(マイケル・ローフ前掲書、100頁)。イアンナ女神神殿を重視し、息子を「祭司長」にすえた。エル・ムカイヤルのジグラッドを建設し、レンガ造りの三層の塔で頂上には月神ナンナルの神殿が建っていた。この最初のジグラッドは、「神々への崇拝」のみならず、「水の流れを知らせる」という洪水対策という「安全上の要請」もあった(H.ウーリッヒ『シュメール文明』73ー4頁)。

 「王朝基礎固め」の二大方針として、「厳格にして全国的に通用する法典の制定」と、「アッカドの最後の王達の下で崩壊していた」「国際的貿易の復興」を打ち出した(H.ウーリッヒ『シュメール文明』216頁)。

 前者から見ると、ウル・ナンムはメソポタミア最初の法典である「ウル・ナンム法典」を制定し、これで「正義を国土に確立」(前田前掲書、55頁)するために、詐欺師・腐敗役人の取締り、市民の牛・驢馬の略奪者の取締、公正な度量衡の制定、孤児・寡婦の保護、貧者の保護などが規定された(中原前掲論文、349頁、S,N.クレマー前掲書、59頁)。ウル・ナンムは自らを牧人と表現し、王の職務は「人間社会における正義・公正の監視」(前田前掲書、56頁)とした。社会に不正が満ちてきたので、王が正義を実施する存在となって、存在根拠を主張せざるをえなかったのである。息子シュルギが制定したとする説もある(マイケル・ローフ前掲書、102頁)。

 後者については、彼は、ウルは外国貿易拠点の首都となり、以後の歴代諸王によって大改造され、「ペルシァ湾岸諸国以遠の土地とメソポタミアとの間の交易の港町」として栄えた(マイケル・ローフ前掲書、101頁)。こうして「南メソポタミアが富と権力の中心」となり、「シュメール・ルネッサンス」が現出した。

 彼の内政重視策の一環として、灌漑運河も重視され(灌漑運河第二の復興期か)、ウル・ナムは、「農耕地を肥沃にするために、多くの運河を堀りすすめたことを自負」した。彼は、「川から引く運河は、その取水口を水門か堰で開閉できるようにし、その水路の末端に溜池をつく」ったが、これは飲料用の溜池ナグ・タル(NAG-TAR)とは異なる。 当時の南メソポタミアの耕地面積は300万haに及んだ(中島健一『河川文明の生態史観』93頁)。

 シュルギ 二代王シュルギは、「王を生ける神としてその王像を安置した神殿を地方の都市にも建立」し、「第八の月を『シュルギの祭の月』と改め、君主崇拝を国家制度」とした。シュルギ時代から「ふたたび王は神とされ」、「イシン朝まで継承」(前田前掲書、54頁)された。「自らの名前に神であることを示す限定詞」を付けた王は、アッカド王朝4代ナラム・シンと、このシュルギだけである(岡田・小林前掲書、79頁)。父ウル・ナンムは多くの神殿を造って王を神としたいとしており、この父の要求を受け継いで、シュルギは「神の称号を一種の天命として自分の名前に結びつけ、ごく自然に自らを神と称した」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』215頁)ようだ。

 「神とされた王の神殿が、支配下の諸都市に建立され」、神殿には神である王の像が飾られ、「豊饒を祈願して祭りを主宰」(前田前掲書、54頁)した。「神殿建築はふたたび盛んにな」り(ロバーツ前掲書、134頁)、王は宗教面で復古化して、再び「祭司長と国の首長の両者を兼ねる」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』218頁)ようになった。

 46年間統治したが、即位20年目頃、シュルギはウル第3王国の大改造にのりだし、領土拡張に従事し、アッシュールからスーサの間の地域を併呑した(マイケル・ローフ前掲書、102頁)。「ウル・ナンム法典は人々に法治国家の安定感を与え」、ウルを始めシュメール都市の市民は「一定の繁栄を享受」できた(H.ウーリッヒ『シュメール文明』221頁)。「再び物価は安定し、度量衡は常に検定局によって検査が行われた」 のであった。

 シュルギも、こうした内地重視策の一環として灌漑にも従事したであろう。実際、従者アラドグゥのシュルギ王宛粘土版で、アラドグゥは王指示に従い、海からディルムンの地、シムルルムの境界線、スビルの領地まで、「彼等の色々な街々」、「彼等の軍隊」、「彼等の用水路、畑、耕せる土地と彼等の堤防、そして土手」の整備などに従事し、治安については、「私は彼等の要塞のために強い警備を確立し彼等の全ての軍隊を服従させた」と報告している。最後に、彼は、「私は、洪水の際には、耕せる土地の水抜きを行った。彼等の堤防が水漏れした時、私は(堤防の修繕をー筆者推定)を施した。私は、彼等の畑と葦原に(灌水ー筆者推定)した。・・・彼等は頭を下げ・・・」(The ETCSL project, Faculty of Oriental Studies, University of Oxford、デジタル文書)とした。末端では、王意を帯びた臣下が、農民意向を踏まえて灌排水に従事していたのである。

 シュ・シン 四代シュ・シンの時、エラム人(メソポタミア東部)の反乱やアムル人(メソポタミア西部)の侵入で、「王国の軋み」が始まる(マイケル・ローフ前掲書、103頁)。彼は、「ティグリスとユーフラテス両大河間を結ぶ万里の長城を築いて、南西方面からメソポタミアへ浸透しつつあったセム系の部族集団、『略奪者』マルトゥ人(アムル人)を締め出そうとした」(マイケル・ローフ前掲書、103頁)のである。陸路は危険だったので、「国際貿易の主要部分は、サルゴン大王の時代と同様、海上貿易が占めていた」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』220頁)のであった。

 このシュ・シンまでの100年間は、「平和」の時期であり、「悲惨には慣れっこになっていたメソポタミアの人々」には「奇跡」に映ったろう(H.ウーリッヒ『シュメール文明』225頁)。

 イッビ・シン 五代王イッビ・シンは、ウル、ウルク、ニップールという「帝国で最も重要な三つの場所」で戴冠式を行なった(H.ウーリッヒ『シュメール文明』225頁)。しかし、治世2年目、エシュヌンナが反乱し、3年目スーサを失い、10年目には臣下の将軍イシュビ・エッラがニップール・北バビロニアの支配権を掌握した(マイケル・ローフ前掲書、103頁)。

 前2004年「ウル第三王朝は、エラム軍の攻撃を受けて滅亡した」が、「アムル人(「シリアを中心として勢力を増大させたセム系遊牧民」で「肥沃な三日月地帯南辺」に遊牧するために南下し、定住化)の侵入が同王朝滅亡の間接的な原因」(中田一郎『ハムラビ法典』リトン、1999年、154頁)であった。東からエラムの侵入をうけている時に、西から遊牧民アムールの侵入でウル第三王朝は滅亡したのである(中原前掲論文、350頁)。彼「アモリ(アムル)人がユーフラテス河流域で長城を破って要塞を占領し、諸都市の畑を荒らし交易路を断った」結果、「シュメル各都市はウル第三王朝から離反」したのであった(岡田・小林前掲書、117頁)。シュメル人の敵の中で、「アモリ人の脅威は最も大きかった」(小川英雄『古代オリエントの歴史』25頁)のである。

 以後、シュメール人は「政治的勢力としてはふたたび歴史の上にその姿を現わすことはなかった」(中原前掲論文、350頁)。ただし、「楔形文字、粘土板、治水の技術などは後の民族につたえられ」た。


 以上、ウル第三王朝では、「乾燥と暑熱が激しくなり、ふたたび巨大な運河建設がさかんに復活」(中島健一『河川文明の生態史観』85頁)したと言われるが、末期には東西両側面から侵略に直面し、上からの灌漑政策は後退をを余儀なくされたであろう。しかも、ウルカギナ時代には大麦収量は1haあたり2520リットルだったが(ウルカギナ時代の課税記録による)、最後のシュメール王朝のウル第V王朝(紀元前2112−2004年)の紀元前2100年には「灌漑耕地の二次的塩化」でには1350リットルに減少していたから(中島健一『河川文明の生態史観』85頁)、塩化で大麦収量は一層減少してゆくのである。

                                         E イシン・ラルサ時代

 アモリ(アッカド語で西方[シリア、パレスチナ地方]の意味、アムルともいう)人が、前2003年(マイケル・ローフ前掲書、103頁は、前2004年)にシュメール人のウル第三王朝を崩壊させ、エラム人を追放した。シュメール人は、「数の上で勝るより強力な民族セム人に吸収され」、「公用語はアッカド語になった」(ジャン・ボテロ、松島英子訳『メソポタミア』法政大学出版局、1998年、308頁)。彼らが、イシン・ラルサ両朝、バビロン王朝などを開いた。

 イシン・ラルサ両王朝の成立 その後前2017年に「継承者と自認する王朝がイシン市に成立し、ついでそのイシンに対抗する王朝がラルサ市に誕生」し、このニ王朝の並立時代が続く(前田前掲書、12頁)。イシン王国の創設者イシュビ・エッラ(前2017−前1985年)は、「もともとウル第三王朝最後の王イッビ・シンに仕えた家臣」であり、「イシュビ・エッラは努めてウル第三王朝時代の慣行を維持しようとしたので、政権はイシンに移っても、ただちに社会に大きな変化が起こったわけではな」(中田一郎『ハムラビ法典』リトン、1999年、155頁)かった。

 イシン・ラルサ両王朝の支配力は弱く、「ウルク、バビロン、マリなど、各地に独立王国」(前田前掲書、12頁)が割拠していた(マイケル・ローフ前掲書、108頁)。それでも、商人が「ロバを連れて隊商を組み、遠隔地産の品々を取り引きして」いた(マイケル・ローフ前掲書、108頁)。

 イシュメ・ダガン イシン第4代目の王イシュメ・ダガン(前1953年ー前1935年)の頃、貢納義務・兵役義務の廃止、バビロニアに対する10分1税の廃止がなされ、「耕地の売買契約書」がみられるようになる(中田一郎前掲書、155頁)。

 リピト・イシュタル イシン第5代目の王リピト・イシュタル(前1934年ー前1924年)の時、ラルサ王グングヌムが対抗勢力として登場した。グングヌムは、「湾岸地方との貴重な交易を掌握」(マイケル・ローフ前掲書、110頁)した。「ペルシァ湾岸との交易は、ウルのナンナ神殿から資金をあてがわれている商人たちによって行われていたらしい」(マイケル・ローフ前掲書、110頁)が、彼の二人の後継者の治期(前1932年ー前1866年)には、「交易は裕福な市民の手に任されるようにな」り、彼らは「資本を提供する代わりに、一定の利子を受け取っていた」(マイケル・ローフ前掲書、110頁)。イシュタルは、シュメル都市の法典を「手本」として法典を制定した(小川英雄『古代オリエントの歴史』25頁)。

 以後、100年以上にわたって、イシンとラルサが覇権を争う(中田一郎前掲書、156頁)。イシン第一王朝期後半(前19世紀)には、「天から王権が下ったとき、エリドゥに王権があった」(『古代メソポタミアの神話と儀礼』岩波書店、2010年、101頁)。この「王権が天から下った」という観念は、後のメソポタミアの王権思想の基本となった」(月本前掲書、102頁)。

 小国乱立時代 「イシン・ラルサ時代」末期には、「最高の王」はおらず、有力君主(ラルサ王リム・シン[イシン・ラルサのアムール族王朝の支配者、前1822−前1763年]、バビロニア王ハンムラビ、マリ王ジムリ・リム[前1775−前1761年]、アッシリア王シャムシ・アダド1世[前1813−前1781年]などがそれぞれ10−15人の臣従王を配下においていた。40−60の中小王国)が合従連衡して覇王をめざした(中原前掲論文、351頁)。

 前1865年、ラルサでは、一般庶民のヌル・アダドが王位を奪い取った(マイケル・ローフ前掲書、112頁)。前1804年、ラルサの王リム・シンは、「ウルク、イシン、バビロン、ラビクム」らの連合軍を破り、ウルクを臣従させた(マイケル・ローフ前掲書、112頁)。前1794年ラルサ王リム・シンはイシンを滅亡させ、前1763年バビロンのハンムラビはラルサを滅ぼした。

 このように、イシン・ラルサ時代の「オリエントの状態は混乱の一語につき」、「四方八方からさまざまな民族が押しよせ」、「まさに激動の時代」(ロバーツ前掲書、136頁)であったため、「灌漑運河の建設についての顕著な記録は乏し」(中島健一『河川文明の生態史観』93頁)くなる。もとより現場の農民は必要な灌漑施設を整備していたであろうが、塩害に対応できずに、この頃には小麦の収量減少傾向(紀元前2400年頃、「小麦と大麦との作付の割合は1:6」だったが、300年後の前2100年には「小麦の割合は2%に減少」)が顕著となり、紀元前2000−1700年には、「小麦の収穫記録がなくなってくる」(Beek,M.A.,Atlas of Mesopotamia, 1962,p.16[中島健一『河川文明の生態史観』85頁])。因みに、前1700年頃のニップールの『農事暦』や『ハンムラビ法典』では、小麦の記述なく、もっぱら大麦が扱われている。

                                      F 古バビロニア 

 ハムラビ王 ハムラビ(Hammurabi,前1792ー1750年)は、メソポタミア全域を初めて統一し(ロバーツ前掲書、136頁)、これまで「オリエントに誕生したどの王国をもしのぐ大帝国」(ロバーツ前掲書、137頁)を築いた。

 つまり、前1787年にハムラビはウルク、イシンを占領し、前1784年にはラビクム、マルギウムまで遠征した。そして、前1783年から20年間、ハムラビは「神殿と運河の建設に邁進」(マイケル・ローフ前掲書、121頁)した。前1770年頃、マリ王国ジムリ・リムの遊牧民宛メッセージによると、バビロン王ハムラビには15人の王(臣従王という)が従い、ラルサ君主リム・シン、エシュヌンナ君主イバル・ピ・エル、カトナ君主アムト・ピ・エルにも同数の王が従い、ヤムハド君主ヤリム・リムには20人の王が臣従したというから(マイケル・ローフ前掲書、110頁)、65人ぐらいの都市国家が4地域に分かれて鬩ぎあっていたことがわかる。

 ハムラビは、前1760年にはまずアッシリア国を攻略し、治世29年(前1762年)にエラム、スパルトゥ、グティウム、エシュヌンナ、マルギウムの同盟軍を打破し、前1763年には、マリ、エシュヌンナの援助を受けて、ラルサを制服し、前1765年にマリを破った。前1755年に最後の敵エシュヌンナを征服し(マイケル・ローフ前掲書、121頁)、治世37年(前1754年)頃に「バビロニア、アッシリアをふくむ一大統一国家を建設」(中原前掲論文、354頁、前田前掲書、13頁、中田一郎前掲書、158頁)したのであった。これを可能にした基底力こそ、大麦と果物などを中心とする農業生産力の増加、それに応じた人口増加であった。だが、それだけ、灌漑農法に伴う塩害も深刻化してきた。

 彼の治世に、「運河建設の第3番目の復興期」がはじまったが、 「中・南部の低地地方の灌漑耕地は、塩化物による汚染がひどくなり、農耕地の生産性は急速に低下」し、「王の治世の最後の9年間はその全精力を運河網の建設にそそ」ぎ、新設した「巨大なアラクトゥ(Arakhtu)運河」を「王の運河」(Nahar malhu)に連結したのであった。さらに、両河の高低差を利用して、首都バビロン北部の中流地帯で、ユーフラテス川の水を運河でチグリス川につなぎ、その水をさらに運河でシッパル(Sippar)までおろした。その後も、こうした「両河の河床の高低を利用する灌排水体系」は「積極的に活用」された(中島健一『河川文明の生態史観』93−4頁)。王は灌漑運河使用料を徴収し、こうした運河建設費用に運用した。

 ハムラビは、大統一国家を建設した前18世紀中ごろ、ハンムラビ法典(「シッパルの太陽神の神殿」の閃緑岩の石柱に刻銘)を編纂した。そのハムラビ法典第45条、48条、53条では、氾濫被害は地主に転嫁できず、耕作人が負担する事、氾濫被害に対して自作農民を保護すること、運河保全義務を怠った地主は耕作民氾濫損害を弁済することなどが定められた。当時にあっては氾濫を十分防ぐことはできず、氾濫被害をめぐって、耕作民と地主との利害調整が図られているのである。

 当時の農民は祖先から受け継いだ農法を磨き上げており、それは前1700年頃のニップールの『農事暦』(S,N.クレマー前掲書、68−70頁)から知ることができる。それは、「むかし一人の農夫が教えをその息子に伝えた」という行で始まる。「豊富な穀物の収穫を保証」するための農業労働として、最初に灌漑が取り上げられていて、メソポタミア農民にとって灌漑こそが重要であったことを確認することができる。つまり、灌漑については、「灌漑の水が畑にはいりすぎないように灌漑溝に注意せよ」、「耕地の水をせき止めたら、水が平均にゆきわたるよう、耕地の湿った土壌に気をつけよ」とされた。

 以下、大麦栽培について、農具(「農夫は・・家族や雇い人に対し、あらかじめ必要な道具や籠や容れものなどを、すっかり整備しておくことを助言する」、耕作(「畑地を鋤くために、臨時の牛を雇っておくこと」、「鋤を入れる前に、一度は唐鍬で、二度目は中鍬で二度すきおこさねばならぬこと」、「必要な場所ではハンマーで土の塊りを砕いておくこと」、「日雇い人を監督し、仕事を怠らぬようにさせること」)、播種(鋤に種蒔き器が取り付けられて、6m幅の土地につくられた8つの畝に種を蒔く。「大麦の種子を蒔く人が、種子を指二本の幅に規則正しく落としているかどうかをよく見なさい」、「もし種子が適当の深さに畝の中にこぼれていない場合には、<鋤の舌>の位置を変更しなければならぬ」、「汝が真直ぐな畝を鋤いたところでは、今度は斜めの畝を鋤き、斜めの畝を鋤板ところでは、今度は真直ぐな畝を鋤け」、「播種の後では、大麦の芽が土塊でおさえつけられないように、畝には土塊のないようにしておかなければならない」)、手入れ(発芽すれば、「生育する野ねずみや鳥などが生育する穀物を荒らさないように、野ねずみや虫駆除の女神ニンキリムにむかってお祈りをしなければならぬ」、「大麦が育ってせまい畝の底一杯になると、農夫は初めて水を瀉ぐ」、「ついで大麦が<船の真ん中のござ>のように畑一面に生い茂ると、二回目の水を施す。三回目の水を施す。三回目の水は<瑞々しく茂った>穀物にそそがれる」、「こうして水を注いだのに、なお穀物が赤くなったら気をつけなければならない。それは穀物を枯らすおそろしいサマナ病に罹っているのである。」、「もし穀物が成長を示したら、四回目の水を与える。このようにすれば十パーセントの増加が得られる」)、収穫(「収穫の時がやってくると、農夫は大麦が穂の重みで曲がるのを待たないで、<まだしっかりしている日>に刈らねばならぬ」、「この<日>になると、三人が一組となって、一人が穀物を刈り、次のが束ねる」)、麦こき(「つみ上げた穀物の茎を粗い板で五日間前後にこく」、ついで「牛で引く脱穀機でみみがらをとった」、「必要な祈りをした後に穀粒を三つ又でふりわけ、さおで打ち、泥やごみをはらい落とす」)などが述べられている。
 
 最後に、「ここに記された農耕法は・・・スメールの主神たるエンリルの子にして<真の農人>であるニヌルタの神の法でもある」とされた。

 また、 神話『イナンナとシュカリテュダ、別名庭園作りの大罪』によると、庭園師シュカリテュダが「心こめて手入れ」するが、いつも枯らしてしまうので、星の動きを研究して、「神の法」を学んだ。この結果、彼の庭園には「あらゆる種類の青いものがいつも生い繁るようになった」のである。しかし、彼の庭園で女神イナンナがシュカリテュダによって辱めをうけた。そこで、イナンナはシュメールに三つの呪い(国中の泉に血を注いで森・果樹を血でそめたこと、国中に風・嵐をおくったこと)をかけたので、シュカリテュダは暴風などで「身の危険」を覚え、父の助言で「都市の中心近く」に潜伏した。一方、イナンナは、知恵の神エンキに助言を求めた(S.N.クレマー前掲書、70ー3頁)。この神話は、菜園と果樹栽培が「スメールの経済的繁栄の源泉」になったことを示している。

 サムス・イルナ ハムラビ王の後継者サムス・イルナ(Samsu-Iluna,紀元前1749−1712年)も「運河体系を積極的に改善し、はるか南方のウルクまでの運河を建設」した。「古バビロニア時代における農耕地の貸借契約書には、通例、耕地への灌漑用水は特定の運河から引くことを明記」し、「国王はすべての灌漑運河の水利権を所有し、農民たちは灌漑用水の使用料を支払わなければならな」い。「運河や溜池は、すべて手作業で掘っていたので、おびただしい集団労働が必要」であるので、この動員・管理に「強力な支配権力」が必要だった。この強制労働(erim或いは,sabe)には「現物で手当て」が支給され、「氾濫の季節」には、この集団労働による「灌排水の作業は繁忙をきわめた」(中島健一『河川文明の生態史観』96頁)のであった。

 
 前1739年南メソポタミアに大災難(洪水か)が起こり(マイケル・ローフ前掲書、121頁)、「バビロン王国はハンムラビ登場以前の小さな王国に収縮」(中田一郎前掲書、158頁)した。そして、「南のシュメールの故地には『海の国』ができ」、「エラムも離反」(前田前掲書、13頁)し、サムス治世8年、「カッシート人(印欧語族ではない)の軍隊が史料にはじめて登場」(中田一郎前掲書、158頁)する。

 サムス・ディタナ バビロン4代目の王サムス・ディタナ治下の前1595年、「ヒッタイト(印欧語族)がバビロンを攻略し、ほどなくバビロン第一王朝は滅亡した」(前田前掲書、13頁)。

 カッシート朝 前14世紀のアマルナ時代(エジプトのアマルナから出土したアッカド語で書かれた多数の外交書簡からこうよばれる)には、「オリエントに栄えた五大強国(エジプト、ヒッタイト、ミタンニ、アッシリア、バビロニア[カッシート朝])が華やかに覇を競った」(前田前掲書、15頁)のであった。

 巨大運河復活 古バビロニア時代には「乾燥化がはげしくなり、人口が川ぞいの地帯に集住しはじめ」、「チグリスの水がウルやウルク地方の灌漑用水として重要性をまして」(中島健一『河川文明の生態史観』81頁)きて、古バビロニアの諸王は、「ふたたび巨大な運河建設」を「さかんに復活」(中島健一『河川文明の生態史観』93頁)した。前1595年、そのバビロニア帝国がヒッタイト、カッシートの侵入で壊滅した。

                                     G アッシリア・新バビロニア 

 中アッシリア王国 前1300年にアッシュール・ウバリト1世はミタン二支配から脱却し(ボッテロ『バビロニア われらの文明の始まり』34頁)、前1100年以後に中アッシリア王国になる(小川英雄『古代オリエントの歴史』85頁など)。アッシリア王国は「文化的にはバビロニアに強く依存」し、好戦的で、「機動力と攻撃の激しさ」を「主たる切り札」として「当時の軍事知識を更新」し、「軍隊は輸送や橋と船の建設のための特別部隊」を持ち、アッシリア軍の征服は「残忍で血なまぐさい」(小川英雄『古代オリエントの歴史』85−6頁)ものであった。

 前1150年アッシリア王国時代には、「強力な中央集権的郡県体制」のもとに、「灌漑運河」の「第4番目の復興期」を迎えた。アッシリアは、僅かながら「冬季の降雨」に恵まれ、「南西へのゆるやかなスロープ」で排水はよく、「地下水位も低く」、塩害は「ひどくなかった」のである(中島健一『河川文明の生態史観』96−7頁)。

 アッシリア諸王は、「多数の戦争の捕虜や罪人、奴隷」などで巨大運河を建設し、「メソポタミア北部・東部地方の丘陵地帯からチグリス川東岸の平原に水を引いた」のであった。この頃には、「流水量のすくなくなったチグリス川やザグロス斜面の多くの支流も灌漑用水として大いに利用されて、チグリス川ぞいの東岸地方にも農耕地が開かれ」(中島健一『河川文明の生態史観』97頁)た。

 しかし、前1200年ー前900年、「気候の変化」で「農耕可能な土地面積が減少」し、「結果的に政治的不安定が生じ、非定着牧畜生活者の増加を促し」、「暗黒の時代が近東からエジプト、ギリシアに及ぶ地域を覆い隠した」(マイケル・ローフ前掲書、158頁)のであった。ティグラト・ビレセル一世(在位紀元前1115年 - 紀元前1077年)の晩年には、「大飢饉がメソポタミア全土を襲い、西方のアラム人が食料を求めて雪崩込んできたことなどから、アッシリア王国は混沌状態にな」(岡田・小林前掲書、171頁)った。

 前1207年アッシリアは崩壊し、前1190年にはヒッタイト帝国が滅亡し、前1070年エジプト第20王朝が壊滅した。これらによって、「パレスチナ地方とレヴァント地方を支配する強力な外国勢力はもはや存在しなくなった」(マイケル・ローフ前掲書、158頁)のであった。

 新アッシリア王国  新アッシリア時代(前950−前600年)に、アッシリアは、「シリアとユダヤ人の王国に攻め込」み、「アッシリア帝国は快進撃を続けた」(ロバーツ前掲書、248頁)。アッシリアは、従来の帝国とは異なって、服従地の支配者を一掃し、アッシリア人の総督を派遣し、住民も追放した(ロバーツ前掲書、248頁)。アッシュル神に護られ、鉄製武器、騎兵、「攻城用の工兵」などを備えた「史上最強の軍隊」を背景に、「アッシリア帝国は残酷な征服と強圧的な支配のうえに成り立ってい」(ロバーツ前掲書、251頁)た。

 新アッシリア王アダト・ニラり2世(前911年ー前891年)以降、「アッシリアは再び拡張」し、バビロンと戦い、以後互いの娘を政略結婚させ、同盟を結んだ(マイケル・ローフ前掲書、167頁)。アッシュールナツィルパル2世(前883−859年)の治期、「再びアッシュル神の威光が輝」(岡田・小林前掲書、171頁)き、14回も遠征を行ったと言う。彼の「近隣諸国の征服活動」は、「まず最初に、アッシリアが独立国の支配者から贈り物を受け、各支配者はアッシリアの封臣として属国のとりきめを結」び、「後になって応分の貢ぎ物が納められない事態がおこり、これを反乱とみなして、アッシリア軍の介入の口実」にして、「例外なく撃破」して、征服終了後に、「土着の王族がアッシリアの封臣に指名されるか、あるいはアッシリア王に任命され地方を治めていた地方総督のもとに小国が併合される」(マイケル・ローフ前掲書、160頁)というものであった。彼は、都をアッシュールからカルロに遷都し、360haの都市を7000万個のレンガで8kmの市壁を造って囲み、内部に神殿、宮殿を建設した(マイケル・ローフ前掲書、160頁)。標準的な宮廷プランに基づいて、「公共的な用務にあてるための外庭区域」、「中庭の周囲に諸室を配した内側の区域」、両者を隔てる玉座室(47m×10m)がもうけられ、各部屋の壁は「浮彫り像」で飾った(マイケル・ローフ前掲書、160ー1頁)。玉座室の浮き彫りには、「戦闘または狩猟における王の姿」、「戦利品を受け取る」王が描かれる(マイケル・ローフ前掲書、164頁)。

 シャルマネセル3世(前858年ー前824年)は、「通商路の管理とそこからえられる収入」の確保、木材・銀・大理石の確保、宮殿建設労働力の確保などのために、ビト・アディ二国(アラム人)、ダマスカスとその連合軍(イスラエル王、エジプト王、レヴァント諸都市など6万人)などと戦い、西方遠征に成功した(マイケル・ローフ前掲書、165頁)。カルフ市外に13年かけ、青銅門扉などで飾り、「居城、宝庫」たる宮殿を建設し、以後はこれは戦利品保管庫となる(マイケル・ローフ前掲書、167頁)。

 シャムシ・アダド5世(前823ー前811年)は、兄弟であるアッシュール・ダイン・アピルの反乱に直面し、バビロニアとも対立・緊張関係が持続した。彼の死後5年間后が幼児アダド・ニラり3世かわって政治指導し、以後「60年間にわたって、アッシリアは衰退」(マイケル・ローフ前掲書、175頁)し、地方長官が独立割拠した。

 ティグラト・ビレセム3世(前744年ー前727年)は、「以前のアッシリア王の政策を覆して・・アッシリアの伝統的な国境の外にあるユーフラテス川対岸の国々を併呑」し、「シュメールとアッカドの王」を名乗った(マイケル・ローフ前掲書、176頁)。前729年、ティグラト・ビレセム3世は、自らバビロニア王に即位した。バビロンは脆弱ながらも「神聖で由緒ある都市」であった。彼の軍事的政治的成功は、軍制改革(アラム人傭兵による職業的常備軍を設置、外国人舞台も含む騎馬軍)、「諸民族の強制移住と再植民」によっている(マイケル・ローフ前掲書、179頁)。これによって、「アッシリアの最も栄えた約2世紀」(小川英雄『古代オリエントの歴史』88頁)が出現することになる。

 サルゴン2世(紀元前721−705年)の時に「新アッシリア王国が最盛期を迎え」(岡田・小林前掲書、172頁)た。サルゴン2世は、「西、北、東の問題を解決」し、前709年に「自分がバビロニアの支配者」と宣言し、「バビロニアをアッシリア帝国に組入れ」、「国の安定を保つ目的で10万8000人以上のアラム人とカルディア人をバビロニアから強制移住させた」(マイケル・ローフ前掲書、182頁)。そして、「ニネヴェの北方約16kmの地点に新都ドゥル・シャルキンを造営」(岡田・小林前掲書、172頁)した。彼は、「敵地の民をとらえて、強制移住させ、奴隷として使う」(ボッテロ『バビロニア われらの文明の始まり』37頁)のである。

 彼は、この奴隷を使って、灌漑整備や運河建設に従事した。つまり、彼は、@庭園王都コルサバードを建設し、「周辺の農耕地には灌水がゆきとどき」、A北方との戦争で地下水カナート技術を修得し、Bバグダード付近に「ウムリアシュの土地の運河」(チグリス川東岸からエラム[ペルシァ]に接続)を建設したり、ボルシッパ(Borsippa)運河を修復した。サルゴン王の子セナケェリブ(Sennacherib、前688−681年)は、「ニニベの周辺からチグリス川東岸地方を灌漑するために、広大な灌排水システムの建設に着手」(中島健一『河川文明の生態史観』97−8頁)した。

 アッシュル・バニパル王(前668−前627年)の時には、「バビロニアの文明は以前にもまして美しく輝」(ボッテロ『バビロニア われらの文明の始まり』37頁)き、前646年にはエラム王国の一部を制圧し(ロバーツ前掲書、249頁)、次いでエジプトも制圧し(小川英雄『古代オリエントの歴史』87頁)、アッシリアの支配領域は最大になった。

 神殿では、預言者がいて「神託預言を告げて」(月本前掲書、272頁)いた。「新アッシリアの神託預言は・・・王の保護、王権の確立、敵の撃破、治世の安定と永続の約束などを内容」(月本前掲書、283頁)とする。

 しかし、「君主政の組織は安定性を欠き」、貴族階級・地方総督が強く、「陰謀、王位をめぐる争い、暗殺などは日常茶飯事」(小川英雄『古代オリエントの歴史』88頁)であった。その上、過酷な被征服民抑圧のゆえか、アッシリア帝国は「あっという間に衰退」(ロバーツ前掲書、251頁)し、バニパル王死去の翌年(前626年)、バビロンでカルデア人、メディア人が反乱を起こした。

 新バビロニア王国 612年、首都ニネヴァは新バビロニアとメディアとの侵入を受けて、アッシリア帝国は崩壊し、ここに新バビロニア王国が誕生した。

 バビロニアの王ネブカドネツァル(在位紀元前605年 - 紀元前562年)はエジプトに勝利し、「メソポタミアに平和をとりもどし、バビロニア王国に繁栄をもたらすことに成功」(ロバーツ前掲書、253頁)した。前587年、ネブカドネツァル王は、反乱を起こしたエルサレムを破壊し、ユダヤ王国の住民を首都バビロンに連れ去り(バビロン捕囚)、「空中庭園」などを築かせた(ロバーツ前掲書、253頁)。彼は、交易活動を重視して、「交通の要衝」バビロンを拠点に、「ハンムラビ大王時代からの組織的商業活動の伝統」を復活した。彼にとって、商業は「国家と王の富の源泉」(小川英雄『古代オリエントの歴史』91頁)であった。

 灌漑について瞥見すると、紀元前625−538年、新バビロニア諸王らは、「首都バビロン地方の灌漑運河を修復したり、幅をひろげ」ており、「その頃の文書には、運河の建設にたずさわる多くの専門の技術者の名が記録」(中島健一『河川文明の生態史観』98頁)されている。しかし、前539年、強大国家アケメネス朝ペルシァに滅ぼされ(ロバーツ前掲書、255頁)、ペルシァの属州となった。ここに、「メソポタミアのシュメール文明」は滅亡した(ロバーツ前掲書、256頁。

 ストラボー(Strabo,紀元前63−紀元後21年)によると、パラコバス運河(Pallacopas)は、「1万人ものアッシリア人たちが3ヵ月かかって建設した」ものだが、この頃には、「灌漑網の規模は地方的で小さく」、「古代メソポタミア文明の黄金時代」は終了していた。もはや現状の権力の灌漑では塩害に対処できなくなってきたのである(中島健一『河川文明の生態史観』98ー9頁)。「文明が老化」した「前一千年紀のメソポタミア」に「懐疑や疑惑や無関心」が「精神構造の根底をしだいに蝕みはじめ」(H,フラクフォート前掲書、274頁)たのである。


                                        第五 農業栽培と人口増加

 一般的に言って、農耕民は、「土地を耕し家畜を育てることによって、1エーカーあたり、狩猟採集民のほぼ10倍から100倍の人口を養うことができ」、狩猟採集民よりも「人数面において軍事的に優位」を維持した。中規模な農耕社会では「首長が支配する集団」が形成されるようになるが、王国が形成される程ではなく、大規模な農耕社会に至って王国が形成される(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年125−8頁)のである。 

 前1万年頃のナトゥーフ文化のアイン・マラーハ遺跡では「最大規模の1棟は、斜面を選んで東側に開く直径7.5mほどの超半円形の窪地を設け、円弧に沿って壁を石塊で積んだ単室の住居」で、「葦葺きの屋根」がある。屋内3カ所に「炉跡」があり、屋外に「漆喰を巻いた貯蔵穴」があった。この遺跡は0.2haで50棟の家屋があり、人口は2−300人であった(藤井純夫「西アジア農耕起源論の出発点」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、36−7頁])。

 面積3−4haのイェリコ遺跡(新石器時代PPNA期)では、人口は400−3000人と推定され、「1500人くらい」が妥当とされている(マイケル・ローフ、松谷敏雄訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、31頁)。PPNB期(前8600年ー前7000年)の中期ー後期、「レヴァントから北メソポタミアにかけて10haを越す大規模集落」が登場した( 三宅裕「土器の誕生」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、111頁])。先土器新石器時代B、C期の終わりの前7000年頃、「アブ・フレイラ、イェリコ、ベイサムン、バスタなどの遺跡ではそれぞれ集落が10ha」となり、人口は1000人以上であり、1ha未満の小集落は沢山あった(マイケル・ローフ前掲書、33頁)。先史時代後期(新石器時代PPNB期か)、人口が2千ー3千人になった(J.M.ロバーツ、青柳正規監訳『世界の歴史』創元社、2002年、94頁)。この頃は、まだ人口は1万人未満だったようだ。

 前7000年(マイケル・クック、千葉喜久枝訳『世界文明 一万年の歴史』柏書房、2005年、175頁)か前6000年(J.M.ロバート、青柳正規監訳『世界の歴史』創元社、2002年、94頁)には、チャタル・ヒュユク(トルコ)ではレンガ壁の住居が有り、「数万人の住人」(クック前掲書、175頁)が住んでいた。この頃までに農耕が「カスピ海の南東部からインダス川流域の西部にまで分布は広がる」(マイケル・ローフ前掲書、18頁)。

 灌漑が積極化するウル王朝からバビロニア時代に、農業生産規模と人口規模が急増したようだ。

 紀元前2160−40年頃、16万haのラガシュに2.6万人(ウルカギナ王時代[紀元前24−23世紀頃]の6倍)が居住し、17大都市、8小都市、40村落から構成されていた(H.ウーリッヒ『シュメール文明』208頁)。ラガシュ以外にも、エンシとかルーガルの称号をもった都市国家として、ペルシァ湾から、エリドゥ、ウル、ラルサ、ウルク、ウンマ、アダブ、イシン、ニップル、キシュ、バブロンなど(中原前掲論文、335頁、など)があったから、メソポタミア全体では数十万人から百万人ぐらいが存在したと推定される。

 しかし、数百年後のバビロニア時代(前1894年ー前1595年)になると、メソポタミアの耕地面積は、280万ー300万ha(冬期)、120万ha(夏期)(Schmokel, H., Raumordnung und Landesplanung im Alten Orient,1958,S.12 ;Forbes.R.J.,Studies in Ancient Technology,Leiden,vol,U,1965,p19[中島健一『河川文明の生態史観』84頁] )となり、この農業生産力で1500−2000万人を扶養できたと推定されている(V.G.カーター、山路健訳『土と文明』家の光協会、1975年、48、50、62頁)。
                                   
                                     第六 メソポタミア農業の普及

 「先史時代において食料生産が伝わっていったのは、実際に伝わった年代も、地域によって大幅に異なってい」て、東西方向の伝播は「非常に速い速度」である。例えば、「西南アジアを起点として、食料生産は一年に約0.7マイル(約1.1キロ)の速度で、西はエジプトやヨーロッパ、東はインダス渓谷まで伝播」した。西南アジアの起源作物や家畜は、「その大部分が西はヨーロッパ、東はインダス渓谷にまで伝わっている」のである。それに対して、「南北方向の伝播は速度が極端に遅」く、「メキシコからアメリカ合衆国南西部へは、年0.5マイル(約0.8キロ)以下の速度でしか伝播していない」(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年、266頁)のである。

 小麦の普及 1万年前には、小麦はトルコに到達し、8500年ないし8000年前には「ポスポラス海峡を越えてヨーロッパに入」り、約6000年前には「イギリスに達した」(佐藤洋一郎「序」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、6頁])のである。紀元前5000−4000年頃には、パン小麦(パン、めん、菓子などの原料小麦)はドナウ川とライン川流域、南ロシア一帯に普及し、紀元前3000年頃には「北アフリカやヨーロッパ全域に広まった」(佐藤洋一郎「序」[佐藤洋一郎・加藤鎌司編『麦の自然史』北海道大学出版会、2010年、1−2頁])のであった。小麦は、「『牧場の風土』と『砂漠の風土』の境界線に当たる」地域で生まれ、「人間が運ん」で「東と西へと伝播」した(佐藤洋一郎「序」同上書6頁)。メソポタミアの農業が、「西はアイルランドから東はインダス渓谷にわたる温帯地域に急速に伝播できたのは、ユーラシア大陸が東西方向に経度的な広がりを持つ陸地だった」(ジャレド・ダイアモンド゙著『銃・病原菌・鉄(上)』272−7頁)からであろう。

 このようにヨーロッパにも同じ頃に小麦・大麦が伝播したが、メソポタミのように巨大人口・文明を生み出すにいたらなっかったのは、基本的には農業生産力の低さにあった。つまり、古代ローマでは「イタリア半島で播種量の四倍の収穫』があるに過ぎず、「中世初期でも、大ムギや小ムギは播種量のせいぜい二、三倍、多くて五、六倍程度しか収穫されなかった」(岸本通夫『古代オリエント』河出書房、昭和43年、21頁)のである。カロリング朝(7世紀ー987年)の「麦類の収穫量」は「播種量の二倍」に過ぎなかった(鯖田豊之『ヨーロッパ中世』河出書房新社、1969年、107頁)。一言で言えば、ヨーロッパには、沃土をもたらす大河がなかったということである。その結果、ギリシァ、ローマでは食料不足で他国侵略の帝国主義政策が不可避となった。他国侵略の帝国主義政策は、貧しくても、豊かでも、起きるということだ。

 一方、小麦の「東への伝播についてはそれほどわかって」おらず、中国に伝播したとか(加藤鎌司)、中国に起源するとされる(中国研究者)。中国への伝来は数千年前に北方の新彊、蒙古と、南方のインド、ビルマからの二つと推定され、中国への小麦の伝来も文献などからシルクロードが開かれた紀元前1世紀頃(前漢時代)と考えるのが一般的である(佐藤洋一郎「序」同上書6頁)。

 西アジア起源の農業は、「大麦、小麦、豆類などの栽培と山羊の飼育が組み合わさったもので、『地中海式農業』とよばれ」、前7千年紀の中頃に北シリアで確立した(堀晄「西アジア型農業の拡散」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、168頁])。地中海式農業では、「人間=動物=植物の非常にバランスが取れた関係に特色があ」り、「その相互の関係は共生とよぶに相応しい」のである。農業では「人間が麦や山羊を搾取するような関係のように見える」が、「麦からすれば、人間と接触し栽培種に変化することによって、・・競合する天敵を人間が退ける役割を果たしてくれたので、占有種となり」、「人間に伴ってさまざまな地域に進出し、多数の亜種を産み出し」、「どのような環境の変化にも対応でき」、大成功をおさめたともいえる。ゆえに、「農業というのは自然の生態系の小型版」で、「人工の自然」であり、「さまざまな技術的支援体制を開発し、この人工の自然は生態系の枠を飛び出て、全く新しい土地に根付かせることも出来た」のである。しかし、「人工の自然」は人間が支配しているかであるが、あくまで自然とは異なる人為でありつつも、同時に気候条件や天変地異に支配される自然に変わりはないのであり、人間に食される植物が「繁殖」できて「成功」などとは、本末転倒である。彼も「『人工の自然』とは不自然そのもの」(堀晄「西アジア型農業の拡散」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、170−1頁])と認めている。

 拡散理論 農業の拡散に関する理論としては、多元的発生論(夏作物か冬作物か、穀物か根菜かなど、「農耕タイプごとに独自の起源をもつ」という考え)と一元的発生論(エジプト、西アジアを核として農耕技術が世界中に伝播)に大きく分かれ」(堀晄「西アジア型農業の拡散」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、171頁])ている。

 農耕技術拡散に関して、プリエンプティブ・ドメスティケーション(preemptive domestication栽培化・家畜化の先取り。野生動植物を独自に家畜化するより、すでに家畜化した動植物を利用した方が利益が大きいこと)と称される現象があって、「地域によって農作物や家畜が伝播しやすかったり、伝播しにくかったりする」ことがある。しかも、「農作物の野生祖先種は、地域ごとに異なる野生種のあいだに発生した突然変異種がもとになっているから」、「農作物のもとになる野生植物の多くは、地域によって遺伝子が異なるのが一般的」(ジャレド・ダイアモンド゙『銃・病原菌・鉄(上)』267頁)である。

 そこで、西南アジアの主要農作物の遺伝子を調べると、「古代から育てられている主要農作物」は「単一栽培種を祖先に持」ち、「単一の野生祖先種の遺伝子情報をふくむもの」、「単一の選抜栽培種の突然変異情報をふくむもの」がほとんどである。この点、南北アメリカ大陸の「主要農作物の遺伝子」には、「複数の野生祖先種の遺伝子情報を含むもの」、「複数の選抜栽培種の突然変異情報をふくむもの」が多い(ジャレド・ダイアモンド゙『銃・病原菌・鉄(上)』267−8頁)。

 狩猟採集民の駆逐 しかし、このメソポタミア農法の伝播は決して円滑になされたわけではない。なぜなら、農業は狩猟採集と「敵対関係に陥る可能性」が高く、狩猟採集民が「農業を評価し採用する動機は非常に薄い」からである。農耕は、「土地の養生から始まり、種籾の選択、保存、雑草や害鳥、害獣の駆除、水の管理などさまざまなノウハウの集積である」から、「生産性が高いからといって、農業民と採集狩猟民の接点でノウハウの移植が簡単に行われるはずもない」(堀晄「西アジア型農業の拡散」[常木晃・松本健編『文明の原点を探る』同成社、1995年、171頁])のである。農耕とは、「本来の自然の中で生きていた採集狩猟民にとって生活の糧を根絶やしにしようとする行為」なのである。

 従って、そこには、「農耕民として力を得た『持てるもの』」と、「その力を『持たざるもの』や、その力を後追い的に得たものたち」との間に「争いの歴史」であったことになる(ジャレド・ダイアモンド゙『銃・病原菌・鉄(上)』133頁)。

                                    第七 メソポタミア文明の衰退

 古代シュメル神話によれば、「最初人類は野蛮状態にあって、動物と同じように野の草を食い、淀んだ水を飲み、衣服もなく裸で、もちろん四足で歩いていた」が、神々は「穀物を顕した神」と「家畜化された動物を象徴する神」をつくり、「農耕と牧畜とによって人間の今までの不幸な状態はただちに改善され」(キエラ前掲書、136頁)たとしていた。灌漑農業と牧畜は、メソポタミア文明の原動力であった。

 だが、この灌漑農業がメソポタミア文明を蝕んで言ったのである。V.G.カーターは、「農耕地の砂漠化と古代文明の没落の原因」は、「森林の乱伐と過放牧、掠奪農法による土壌侵食、農地の荒廃、排水不良の湿地の拡大、農業生産性の低下、農耕地の減少、食糧不足、疾病の発生、人口減少、文明の没落、不毛の砂漠の出現」(V.G.カーター、山路健訳『土と文明』家の光協会、1975年)とした。中島健一氏は、気候変化や「たえまない戦乱と異民族の侵入による不安定な政治的条件、悪政と苛酷な農民収奪、乱伐や過牧による森林や草地の荒廃などの歴史的・人為的諸条件」が、「灌排水システムの水収支のサイクルを乱して、人間=生態系(human eco-system)を破壊し、あの輝かしい古代文明を衰退させた」(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、65ー6頁)とした。中島氏は、「灌排水システムの水収支のサイクル」の破壊が塩害で小麦栽培を困難にしたこそが、メソポタミア文明衰退の根源的原因としたのである。

 このように、メソポタミア文明は、既にその起動力が衰退・崩壊の萌しをはらむものだったのである。これは、人間にとっての文明の本質を考える上で非常に重要な核心なのである。




                                       第二項 エジプト文明と小麦

                                     第一 エジプトの自然

 紀元前9500年ー6500年、北アフリカは「極端に乾燥する砂漠気候」だったが、紀元前6千年紀の中頃から、「乾燥条件が和らぎナイル河谷やその周辺地方の気象条件はいくらか温暖・湿潤とな」り、「古王国の末期」(紀元前5000年ー2350年)まで続」いた(中島健一『河川文明の生態史観』102−3頁)。しかし、前3千年紀の終り頃、「エジプトの一般的な気象条件は現在の気候に近づいてくる」(中島健一『河川文明の生態史観』103頁)。後氷期(紀元前8000年)以降紀元前3000年にかけては、「エジプトの自然的諸条件は、現在とはかなり異なって、やや冷涼・湿潤となった(中島健一『河川文明の生態史観』111頁)。

 これは、エジプトにも農業栽培に適した状況が生まれたことを意味する。だが、当時も現在も、エジプトでは、僅か3.5%だけが耕作可能で「残る96.5%は荒蕪不毛な、人間の住むに適さない砂漠」であった(フランクフォートら、山室静ら訳『古代オリエントの神話と思想』社会思想社、1997年、39−40頁)。そうした中で、エジプトに大きな恵みを与え続けたのがナイル川であった。

 ナイル川は「流水量も多」く、「メソポタミア地方や西北インドに比較して、はるかに恵まれていた」(中島健一『河川文明の生態史観』111頁)。このナイル川は、本流(白ナイル)と支流(青ナイル)からなっていた。本流は、「赤道直下ヴィクトリア湖付近の山地を水源とし、・・砂漠地帯に入」り、支流は、「エチオピア高原に端を発」っして「スーダンの首都カルトゥームで合流」し「地中海へと注」(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、2頁)いでいる。


                                      第二 農耕の開始

                                   1 メソポタミア文明との関係 

 メソポタミア文明の移入 
エジプトの文明は、「シュメール文明から多くを学ぶことができたよう」(J.M.ロバーツ、青柳正規監修『世界の歴史』1、「歴史の始まり」と古代文明、創元社、2002年、146頁)である。前4000年代後半、「タサ、ファイユーム、バダリ、マトマル、ハンマミーヤ、アムラ、ナカダなどで、漁労をともなう半農半牧の小規模の村落が現れた時、栽培された麦も、飼育された羊や山羊も、アジアから伝えられた品種」であり、ナイル川流域に移住した後、「急速にアジアの影響を受け、このような農耕、牧畜とともに、銅器の使用も学んだ」(小川英雄『古代オリエントの歴史』32頁)のであった。つまり、「数百年、数千年にわたるナイルとの戦い」を基盤に、河川氾濫について、「当時の先進地方メソポタミアからなんらかの影響を受け」、「先史時代から歴史時代に移行」(加藤一朗「ナイルと太陽の国」[貝塚茂樹編『古代文明の発見』『世界の歴史』1、中央公論社、昭和42年、374頁])した。その際、「シリアとパレスチナはエジプトとメソポタミアの二大文明をつなぐ橋のようなものであ」り、シリアの古都ビブロスには「長い間エジプトの大商業基地」があった(E.キエラ、板倉勝正訳『粘土に書かれた歴史ーメソポタミア文明の話ー』岩波書店、昭和33年、214頁)。

 このナイルの上記恩沢によって、人々は、「先史時代から、大麦・小麦・麻・ゴマ・豆類その他をつくり、ナツメ椰子やブドウの栽培をおこなった」(加藤前掲論文、372頁)のである。「大むかし、ナイルの岸に移住した人々はまず、砂漠の凹地にナイルの氾濫がのこした水溜りを利用して穀物を栽培することを知った」が、、「この地帯の乾燥の度がさらにすすみ、移住と自然増加とによってナイル河畔の人口が急増するにつれて」、「整地・灌漑の作業がはじめられた」(加藤前掲論文、372頁)。 「人々はこの治水作業によって広大な耕地を獲得したばかりでなく、経験によって幾何学・天文・暦法などの知識をまなんだ」(加藤前掲論文、372頁)のであった。

 メソポタミアとの相違 エジプトでは、先史時代末期には「上・下エジプトの各地方に数十をかぞえる小王国が建設」(加藤前掲論文、374頁)されたが、メソポタミアのような都市は未発達であった。エジプトには、「テーベやメンフイスといった宗教と行政の中心地」以外は「村と市場以外に何もない国」(ロバーツ前掲書、174頁)なのであった。
 
 このように「メソポタミアと違って、村落の都市化は起こら」ず、「ナイル川流域は全体として閉鎖的であり、局地的治水事業の必要のない安定した世界であり、都市よりも広い範囲による政治的統一が望ましく」、「前1500年頃の首都テーベの出現までの間、都市は存在」せず、「後世にノモス(州)と呼ばれるようになった地方的な領土が、細長い流域にいくつも並んで成立」(小川英雄『古代オリエントの歴史』33頁)したのである。奴隷制も存在していたが、「オリエントのほかの地域ほど重要な役割ははたしていない」(ロバーツ前掲書、174頁)。

 また、地形(「北は地中海、南は瀑布」、「東西は地質時代に形成された石灰岩の段丘」、これに続く「無限の砂漠」が「天然の城壁」となる)が外敵侵入を困難にし、「興亡を繰り返したメソポタミアにくらべると、人々ははるかに平和をたのし」(加藤前掲論文、375頁)んだ。 「このようにめぐまれた自然的条件は、古代エジプト人を、平和を愛し伝統を重んじ、一種の中華思想をもつ民族とするのにあずかって力あった」(加藤前掲論文、376頁)のである。

                                          2 ナイル川の氾濫

 定期的な「穏便」氾濫 「ナイル河の氾濫は、まるで暦のように正確に増水し、そして、減水」し、「その流水量もほとんど一定しており、氾濫の状況はほぼ1ヵ月前に予測できた」が、「チグリス=エウフラテス両河の氾濫は、その時期や流水量が一定せず、さまざまな時期に増水」し、3、4月に流量が急増し、6月にかけて氾濫した(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、78頁、ロバーツ前掲書、147頁)。

 紀元前4千年紀の中頃まで「白ナイルの流水量は青ナイルより多かった」が、現在は「低水期の流水量の80%は白ナイル」で、氾濫期には「白ナイルの流水量比が10%に下がり」、青ナイルが68%に増加する(中島健一『河川文明の生態史観』106頁)。つまり、青ナイルは「増水期に異常に膨張」するということである(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、59頁)。6月下旬、青ナイルが「ナイル本流」に注ぎ、「本格的な氾濫がはじま」り、7月に氾濫はエジプトを潤しはじめ、9月中旬から10月初旬にかけてクライマックスに達する(中島健一『河川文明の生態史観』107頁)。古代エジプトの耕地は、ファイユーム(Fayum)、デルタ地方、「ナイル川にそう河谷の幅20kmほどの細長い沖積の氾濫原」(中島健一『河川文明の生態史観』111頁)などであった。

 「河道は安定し、凹型の河谷は河岸にそってゆるやかなスロープの沖積低地を形成し、氾濫の季節にナイルの溢流のとどくところまでが耕地となってい」て、「氾濫時の水位上昇は「ゆるやかで規則正し」かった。運搬泥土は「チグリス=エウフラテス両河の1/3〜1/5、黄河の1/13」とかなり少なかったので、「エジプトの灌漑事業はほかの河川文明の諸地方に比較して、技術的にもかなり容易」であり、「灌排水路が急速に沈泥で埋没することもなく、メソポタミア地方のように、大きな溜池や運河を掘って、氾濫のさい溢流を貯留しておく必要もな」く、「農作物の生育・成長の季節的サイクルとナイルの季節的氾濫レジームとがほどよく整合」していた(中島健一『河川文明の生態史観』111頁)。

 農事暦 エジプト人は、この定期的な氾濫に応じて、大水期(7月中旬ー11月中旬)、発芽期(11月中旬ー3月中旬)、乾燥期という三季節にわける農業リズムを作り上げた(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』154頁)。こうした「ナイル川が生み出す安定した自然のサイクル」は、」おそらく人びとに大きな安心感をあたえ」、「新しい技術を獲得するよりも伝統的な暮らしをくり返していくことのほうが重要」(ロバーツ前掲書、171頁)と思わせたのであった。

 エチオピア山地では5−6月にかけ豪雨が襲い、7月からカイロ付近での増水が始まり、8月初旬には下エジプト地方で「ナイル川が急速に水かさを増し、灌漑水路に水が流れこんでくる」のである。9月から10月初め、「氾濫はクライマックスにた」(中島健一『河川文明の生態史観』119頁)っし、11月に著しく「増水して最高」となり(ロバーツ前掲書、147頁)、そこで「幹線運河の水門を閉じ、ほぼ60日間、耕地のうえに滞留させる」のである。やがて「水門を開いたのち、水が引きはじめ、11月中に、水はふたたびもとのナイル川にかえってい」き、「耕土は、さまざまな塩化物を洗い流して、よく水を吸い込み、うすい沈泥が肥効をたすけてくれる」(中島健一『河川文明の生態史観』119頁)。以後減水して、種蒔きの時期を迎える。「水がひいたあとには、肥沃な沈殿物の層が大地をおお」い、「肥料をほどこさなくても、年二回の農作物の収穫は容易」となる(加藤前掲論文、372頁)。それは、「『増水』や『洪水』といった程度の現象で、その両岸にある肥沃な土地ではつねに作物が短期間に実」(ロバーツ前掲書、147頁)った。

 以後、「農作物は雲ひとつない暖かい冬の陽光のもとで、すくすく成長する」(119頁)4月に、「収穫の季節(shemu)」が始まり、5月初旬に終わる。この頃、ナイル水位は最低で、「畑地は乾ききって裂け目ができ、乾土効果による窒素の可給態化をまして作土を更新する」。そして、農民は、「つぎの氾濫の季節」まで「5日ないし10日の夫役にかり出されて、灌排水運河の土堀りや清掃、堤防の補強、神殿や墳墓の造営、ときには、軍役などの公共事業で働かされた」。それは、「“偉大な神”たちのための総意の労働奉仕」(中島健一『河川文明の生態史観』119−20頁)であり、メソポタミア専制国家の労働強制とは違っていた。

 恩恵的な氾濫 一般に「年間の降水量が400mm以下の地方では灌漑なしには農作物の栽培ができない」(中島健一『河川文明の生態史観』112頁)。この点、古代オリエントの河川文明の諸地方では、年間降水量300−200mm以下で、「はげしい暑熱と乾燥との悪条件」にさらされ、「営農のためには大規模な人工灌漑が不可欠の前提条件」(中島健一『河川文明の生態史観』113頁)であった。

 ナイル川が1年間に運ぶ物質量7000万トン、腐植量はアム・ダリヤ川(パミール高原)の2.5倍、Fe2O3(酸化鉄)は2倍、CaCo3は 1/20である(中島健一『河川文明の生態史観』校倉書房、1977年、39頁)。「エチオピア高原や東アフリカの火成岩地帯を侵食して、ナイル川が1年間に運んでくる泥土(silt)の量は1億1000万トン、そのうち、15%が河岸の氾濫原(耕地)にひろがり、33%が河底に沈積」し、残りの52%がカイロまで達する」(中島健一『河川文明の生態史観』108頁)。そして、「ナイル川の運んでくる泥土は、暗灰色で、風化のすすんだ細粒(0.002mm)の埴土が多」く、「ほかのアジア諸河川に比較して、Fe2O2やAl2O3が多く、CaCO3がきわめてすくない」のである。氾濫期に灌漑耕地1haあたり6000−8000m3の灌水をめぐみ、1ha当たり100−150トンの肥効をもたらす固形物を加えたのである(中島健一『河川文明の生態史観』109−110頁)。

 ナイル川の定期的な「穏便」氾濫は、暴れ天井川のチグリス川に比べて、はるかに大きな恩恵を与えた。ナイルが定期的に氾濫すると、「新しい肥沃な泥土で活気を取り戻し」、人々は「濃い泥濘のなかを歩き回って、クローヴァーや最初の作物の種子をせっせと蒔きはじめる」のである。ナイル河は「生命の本源」であり、「太陽の日ごとの誕生と死に該当する、一年を基準とした誕生と死の循環を繰り返した」のであった。この「ナイル河の勝利にみちた年ごとの再生」は、「太陽の勝利にみちた日ごとの再生」ととも、エジプトの二大特質となるのである(H.フランクフォートら、山室静ら訳『古代オリエントの神話と思想』社会思想社、1997年、43−4頁)。

                                      3 泥土の塩害 

 エジプト農業の歴史は、「ナイルの氾濫による灌漑と排水とのきわめて密接な関係のなかで発展」した。現在、「ナイルの氾濫水位の高い年は豊かな収穫にめぐまれ、農民たちは健康であり、結婚式なども派手におこなう」が、「氾濫水位の低い年は農作物の収量が減少し、病死する家畜が多くな」(中島健一『河川文明の生態史観』113頁)り、これは古代エジプトでもあてはまり、「古代エジプト人はナイルの氾濫を、肥沃と多産を象徴するハビ神として崇めてい」た(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、9頁)。

 しかし、「エジプトでも6月になると暑さのために大地は乾燥し」、「地下水が吸い上げられて蒸発し、地下水に含まれる塩分が結晶となって地上に残る現象(塩化、塩害)が起き」る(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、8頁)。その上、ナイル川の運んでくるシルトには、「多くの塩化物」を含んでいた。これに対して、ナイル氾濫が「塩分を溶かしだして地中海まで洗い流すだけでなく、充分な水と天然の肥料(「リンやカリウムなどの養分を含む肥沃な泥」)までも与えてくれ」、「麦、レタスやマメ類などの野菜、イチジクやナツメヤシ、ブドウなどの果実が豊富に採れ」た(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、8頁)。しかし、そういう効果をねらって人工的な灌漑・排水システムを導入してくると、今度は、「灌漑耕地は、灌排水の水収支への配慮が不十分な場合、暑熱と乾燥のもとで、耕土の二次的塩化をまねく危険性をはら」むことになった(中島健一『河川文明の生態史観』110頁)。特に、「デルタの北部地方」はこうした「農耕地の二次的塩化に苦し」んでおり(中島健一『河川文明の生態史観』111ー2頁)、従って、デルタ北部地帯などでは特に灌排水システムが重要になった。


                                       第三  灌排水システムと政治体制 

                                        @ 新石器時代 

 上エジプト 紀元前5900−5400年頃、「西アジアの家畜であるヤギとヒツジ」がサハラ新石器文化に伝来した(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、26頁)。前5000年頃、ハム語族が「ナイル上流の河谷地帯、いわゆる上エジプトとよばれる細長い土地」に住んでいた(ロバーツ前掲書、149頁)。前5000年頃、ハム語族は、「狩猟や、魚介類、野生の穀物などの採集を行っており、やがて農耕を開始」(ロバーツ前掲書、149頁)した。

 下エジプト 紀元前5500年、「北アフリカの気候乾燥化」が再開始し、ナイル流域に人々が定住し、「ナイルの氾濫を利用した農耕と牧畜の生活を開始」した(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、26−7頁)。

 下エジプトにエジプト最古の新石器文化のメリムダ文化(紀元前4500年ー4000年)が展開し、西アジア渡来のエンマー小麦が栽培され、羊・山羊・牛・豚なども飼育された(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)。紀元前5千年か前4千年ころにかけて、下エジプトのファイユーム盆地では、「エンマ小麦・六条小麦・亜麻などを栽培し、羊やロバを飼っていた」(吉村作治『古代エジプト講義録』講談社、上、1994年、44頁)のである。

 こうして、前5500年頃より、「上下両地域それぞれに特徴的な農耕・牧畜文化が発達」(小川英雄『古代オリエントの世界』54頁)した。ただし、上下エジプトが同時に農業を開始したのではなく、「上エジプトの方が先に農業化され」、沼沢地の「下エジプトのデルタ地帯」は「農業に適するまでに乾燥するにはかなり長い時間がかか」り、新王国時代に「デルタ地帯の開発が進み、特にその東部はシリア・パレスチナにつながる地域として重要性を増す」(笈川博一『古代エジプト』中央公論社、1990年、13頁)という見解もある。後述の通りデルタ地帯の開発はナカダV期、メネス王のもとで積極化している。

 前4500年前後の金石併用時代、「ナイル川流域の農耕文化は・・ようやく開始」(小川英雄『古代オリエントの歴史』32頁)された。ナイル川流域で氾濫時の水が滞留している凹地の周辺に農耕が起こったのである。

                                             A エジブト先王朝時代

 先王朝時代では、下エジプトではファイユームA文化(紀元前5500年ー4400年頃)が展開し、上エジプトではバダリ文化(紀元前4500−前4000年)とナカダ文化(Naquada)T期(紀元前4000年ー前3500年[アムラー期])・ナカダ文化U期(前3500−前3200年[ゲルゼー期])ご起きた(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、28頁以下、中田洋子デジタル論文「古代エジプトの歴史」2006年8月14日、立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」参照)。

                                               @ ノモスの成立

 バダリ期 前4000年から前3000年頃、「気候の変化によって・・乾燥化がすすみ、砂漠となった周辺の土地から砂が吹き込む」ようになり、「これを機に彼らは、増水時には水びたしになる養分に富んだ土地(氾濫原)におりて、そこを耕すようにな」(J.M.ロバーツ、青柳正規監修『世界の歴史』1、「歴史の始まり」と古代文明、創元社、2002年、147頁、大城道則『古代エジプト文明』講談社、2012年、17頁)った。

 こうした栽培に呼応して、それを保存し、煮炊きする赤色黒縁土器が作られるようになり、墓の副葬品に「身分や貧富の差」(内田杉彦『古代エジプト入門』30頁)が認められるようになった。

 ナカダT期 紀元前4千年紀の中頃、「降雨量の減少と気温上昇」という「気象条件の変化」で、「住民たちがナイル河谷の氾濫原の辺縁地帯に移住」し、「ナイル川の季節的氾濫を利用」しはじめた(中島健一『河川文明の生態史観』114頁)。同じ前4000紀中頃、「北部デルタ」とメソポタミアなどとの交流が活発化し、メソポタミアから小麦・大麦や家畜が伝わり、「生活の手段は狩猟から農耕へと変わり、のちに盛んになるレリーフの技法が考案され、銅器も大量に出回」(ロバーツ前掲書、149頁)った。

 「農業の飛躍的な進歩」があり、人口が増加し、「墳墓の数が圧倒的に多」(吉村作治『古代エジプト講義録』上54頁)くなる。墓規模・副葬品から貧富差が大きくなり、首長用の「象牙製の人物像」「白色交線文時」などもつくられ、「共同体の首長」存在も想像され、「定住農耕と牧畜によって食料の確保が比較的容易になり、人口が増加」(内田杉彦『古代エジプト入門』31頁)した。特にヒエラコンポリスの墓は大型で斑岩製の円盤型棍棒頭が副葬されており、有力者の埋葬であることを示し、権力の象徴たる円盤型棍棒頭も発掘されているが、まだ農業生産力は低く、まだ社会の階層分化は顕著ではなかった(前掲西村洋子「古代エジプトの歴史」)。

 こうして、この前3500年前後の金石併用時代に「ナイル川流域の農耕文化は・・、ようやく開始」(小川英雄『古代オリエントの歴史』32頁)され、「生業としての農耕の完全な定着」(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)が見られた。

 ナカダ第U期 ナカダ第U期(紀元前3300年)、灌漑農耕が始まる(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)。つまり、「メイスヘッド(儀式用の大型装飾王杖か、武具の頭部)に、スコルピオンという名の『王に近い権力者』が運河を掘るための起工式を行なっている図像が彫られ」、「ナカダU期文化の時代にすべに灌漑施設をつくる考えをもっていたことを示」(吉村作治『古代エジプト講義録』上59頁)しているのである。

 そして、「灌漑農法による氾濫原の耕作の結果」、人口が増加しはじめ、その人口増加が氾濫原進出を促し、これが「やがて、都市の興隆と灌漑農法の安定のための労働の組織化への途をひらいた」(中島健一『河川文明の生態史観』114頁)のである。後述の通り、「ナイルの氾濫を利用した貯溜式灌漑がこの時期に開始され」らしい。「人口増加が農業生産増加のための灌漑を必要とし、その灌漑による農業増加がさらなる人口増加を生み出」し、こうして、人口増加と灌漑が相乗効果を発揮しつつ、農業増加生産をさせてゆくのである。

 この灌漑農法展開によって、「集落が徐々に統合され、各地に小さな『国』が成立」し、この中から王朝時代のノモス(州)が登場した(内田杉彦『古代エジプト入門』33頁)。上エジプトに22、下エジプトに20のノモスが成立したと言われる(吉村作治『古代エジプト講義録』上72頁)。「ノモスはその世襲の首長の指導下に、共同体として灌漑農耕を営」んだ(小川英雄『古代オリエントの歴史』33頁)。このノモス内で「新しいタイプの大型墓」が登場し、富裕層用の木製棺、有力者用の「石製容器」・メソポタミア輸入品が発掘され(内田杉彦『古代エジプト入門』32−3頁)、階層分化は一層進展した(前掲西村洋子「古代エジプトの歴史」、立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」、吉村作治『古代エジプト講義録』上56頁)。
   

                                    A 統一王国の成立ナカダ第V期 

 上下エジプトの統一 ナカダ第V期には、この上エジプト文化が下エジプトのデルタに浸透して、「下エジプトのプトーマーディ文化にとって代わり、上下エジプトをおおう文化」(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)となった。

 そこには、政治的統合過程があった。つまり、前二千年紀の中頃に「テーベが首都としての性格」をおびるまで、エジプトには、メソポタミアのような都市はなく、「田舎の市場町」がある程度であった(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』136頁)。前33世紀には、ノモス分立状態は「終止符が打たれ」、デルタ地帯と上流に上エジプト(はやぶさとコプラがトーテム[権力の象徴])と下エジプト(はやぶさと禿鷹がトーテム)という「二つの王国」が成立した。

 上エジプト王「さそり」(前3300年〜前3100年頃)は、「メンフィスの付近までを勢力圏として、統一的な灌漑事業を試み」た(小川英雄『古代オリエントの歴史』33頁)。前3200年、このさそりの子孫メネス(Menes)王が「下エジプトを征服し、アブ・シンベルからナイル河口にいたる全長800キロもの大統一国家が誕生」させ、これをもって「古代文明の成立とみな」されている(ロバーツ前掲書、151頁)。紀元前3200年に始まるナカダ第V期(前3000年頃まで)、エジプト最初の王メネスは、首都メンフィス(Memphis) に巨大なダムを築造して、下エジプト地方の灌漑網を整備し、この旱地農法より生産量は6−10倍に増加した(中島健一『河川文明の生態史観』115頁)。

 王と灌漑 「先史時代の王たちは、もともと豊作と繁栄をもたらしてくれる神聖な存在」で、「豊作と繁栄をもたらす」ナイル川の「水位をあやつる」と考えられていた(ロバーツ前掲書、155頁)。「エジプト王がとり行った最古の儀式は、豊饒と灌漑と土地の開拓に関する儀式」(ロバーツ前掲書、155頁)であった。

 中島氏は、「灌漑農法のいっそうの発展とその灌排水システムの効果的な運営のためには、地域的な集落単位をこえる・強力な・集権化された政治体制(総括的統一体)が必要になってきた」(中島健一『河川文明の生態史観』115頁)とする。これは、大規模灌排水システムと集権的権力成立との因果関係の問題であり、確かに集権的権力成立によって、大規模灌排水が可能になったが、別に大規模灌排水が可能ならば、専制政府でも民主共和制のいずれでもよかった。

 貯留式(ベイスン)灌漑  紀元前3200−3100年、エジプト最初のファラオ・メネスは、「上エジプトと下エジプトを政治的に統一」し、「すべての土地は王のもの」で「すべての人間はファラオの私民(奴隷)」となり、集権的支配を樹立した。「灌漑のための集団労働には、「ほとんど農民の夫役を適用し、幾組かの罪人のほか、強制労働の利用はほとんどなかったといわれる」(中島健一『河川文明の生態史観』121頁)。このエジプト農業では、次のようなエジプト固有の灌漑方式が案出されていた。

 ナイル川流域では、「例年より少しでも水位が低ければ、広大な農地に水が行き渡らず、反対に水位が高ければ居住地まで冠水し、氾濫が終わる頃にもなかなか水が引かずに種蒔きができないといった問題が起き」た。そこで、「できるだけ広い地域を農地として堤防で囲み、氾濫が最高潮に達したときに水門や水路などを利用して河水を流れ込ませ、長期にわたって農地を水没させる灌漑方式」が編み出された。これで「農地を増やすことができただけでなく、自然のままの氾濫なら二ヶ月(9−10月)の水没期間を四ヶ月(7−10月)にすることができ」、「地中の塩分がより効果的に排出され、国土にいっそう多くの水分と肥沃な泥が堆積するようになり、収穫量の安定・増加がもたらされ」た(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、10頁)。湛水期間が60日間から120日間も続くため、「シルト沈積量が多く、下エジプトの周年式の灌漑耕地に比較して、下エジプトは6倍、上エジプトでは15倍ものシルトが沈積」し、「この肥沃な泥土が耕地のうえに毎年うすく積って作土を若がえらせ、排水とともに表土の塩化物は洗い流されて畑作土壌を肥沃にする」(中島健一『河川文明の生態史観』123頁)のであった。

 これは、まさに「理想的な営農体系を発展」(中島健一『河川文明の生態史観』120頁)させたものであり、メソポタミアの「周年(水路)式や溜池による灌排水システム」(pereninial or tank irrinage system)とは異なって、「ナイル河谷の凹状の地型とナイル河の季節的氾濫のパターンにもっともよく適応」した灌排水システム(中島健一『河川文明の生態史観』120頁)であった。これが、貯留式(ベイスン)灌排水農法(basin irrinage system)と言われるものであった。

 このように貯留式の灌排水システムは「土壌の脱塩作用」をしたのである(123頁)。この点、「メソポタミアやインダス地方では、この数千年の間、凸型の天井川から溢れでる泥土の異常な堆積と畑地の二次的塩化に苦しみつづけ、多くの耕地が埋没または塩害のために放棄されてきた」のである。貯留式の灌排水営農では、「ほとんど施肥をしなかったが、貯留式の農地の土地生産性(1haあたり3600リットル)はほかの農地の1.5倍であ」り、「その生産性はアッカド時代のメソポタミア地方にまさる単位収量」であり、現代日本(1950−1970年平均)の小麦収量(1haあたり3168リットル)、現在(1950−1970年平均)の国際的平均の小麦収量(1836リットル)を凌駕した(中島健一『河川文明の生態史観』123−4頁)。

 貯留式営農の欠陥 「1年のうち2−3カ月ほども耕地が水浸しになっているために、1年単作しかできず、耕地の利用率を悪くした」が、この対策として、周年(水路)式灌漑を導入すると、今度は「畑地土壌の二次的塩化」をまねいた(中島健一『河川文明の生態史観』126頁)。

 これは「氾濫のさいの流水量の多少がそのまま深刻に灌水量に影響」するから、氾濫水位が低い年には「作付けが完全に停止」することになった(中島健一『河川文明の生態史観』126頁)。この対策として「はねつるべ」(shadoof)で揚水することになる。

 貯留式営農の意義 「古代エジプトの貯留式の灌排水営農の条件と様式とは、あたかも、水田稲作にも似通う湿潤な灌漑農法であるが、じつは、畑作農業のひとつの特殊な型態」であり、「凹型のナイル川の氾濫レジームにもっともよく適応した畑作農法の変型」(中島健一『河川文明の生態史観』128頁)であった。

 エジプトでは、「暑熱と陽光とナイルの豊富な水とに恵まれて、穀物は4カ月ほどで収穫することができた」。ナイル河谷では、「地型とその特異な貯留式の灌排水農法のためか、ほかの河川文明の諸地方(とくに、メソポタミア・インダス・黄河中流地方)のような都市形成のパターンがみられ」ず、城郭都市はなく、「比較的に平和」であった。この貯留式の灌排には、集権的権力を必要としなかったということである(この点は立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」も参照)。権力の農民に対する関係は「さほど陰惨・苛酷なものではな」く、「灌排水のための農民たちの集団労働」の負担は「過重なものではなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』128ー9頁)のである。

 農民 「古代エジプトにおける農民支配の政治体制」は、「灌排水のための集団労働そのものは理論的には神への労働奉仕」なので、「(メソポタミア)両河地方や黄河の中流流域ほどに、陰惨・過酷ではなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』115頁)ともいう。あくまでメソポタミア農民に比較してであって、決して苛酷ではなかったと思われる。

 「自由なエジプト人は一人も」おらず、「生ける神を頂点とする権威の階級制度」に「異議をはさむ」事はできなかった(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』147頁)。だが、「カーストもなく、平民出のひとびとも高位に登れ」、「『ネグロ』と呼んでいたヌビア人も最高の地位」にのぼった(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』148頁)。農民は貢税・賦役の義務をもち、一部は兵役を課され、「耕作していた土地にほとんどしばられていた」が、「農奴であったか否か」は不明である。そして、兵士は、「労働隊の機能」をもち、「石切場や鉱山開発」、運河開鑿、神殿・王墓築造に従事し、「それ以上の労働が必要とされるなら、人口の大部分を徴集」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』148頁)した。

 また、「農奴と区別される奴隷」はエジプトでは農業面では「重要な役割を果たしていない」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』151頁)のである。「当時王領や神殿領において、また石切場において使われた捕虜の多数は、シリア戦役の結果」であり、「このような奴隷は、召使・・芸人・・踊り手や楽士として・・家庭や宮廷で使われ」、「他の召使いとほとんど同じ生活をしていた」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』151頁)。しかし、「穀物栽培の成功」は、こうした奴隷によってではなく、「個人的な興味」をもつ「耕作者」によっていたのであるとされる(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』152頁)。そうだろうか。メソポタミアの両大河に比べたナイル川の恵み(畑作の連作弊害・塩害を回避する恵み)こそが、「穀物栽培の成功」をもたらしたのではなかろうか。

 以下、エジプト史は、周知の通り王朝の権力者、建造物の歴史で埋め尽くされ、王朝を支えた肝腎の農民の姿や、農業の実体がほとんど言及されぬものとなる。しかし、ここでは、単なる王朝史ではなく、農業、灌漑、農民などにもできるだけ言及してみよう。

                        B 初期王朝時代(前3000−前2682年)第1−2王朝

 メネス王 古代エジプト史家のマネトンによると、第1王朝の初代王メネスは、「上下両エジプトの境界線近くの要衝メンフィスを占領し、そこにプタハ神の神殿を築き、両地が一人の支配者の下にあるべきことを象徴する儀式を創始」(小川英雄『古代オリエントの歴史』36頁)した。「ヒエラコンポリス出土の石製化粧板」によると、ナルメルが「デルタ地方の王を捕え、上下両エジプトの王とな」り、「彼は諸ノモスの王たちを引き連れ」、「ノモスの連合体の指導者として現われ、次第にナイル川全流域の絶対的支配者となったことを暗示」し、「ここには専制君主政の形成過程がある」(小川英雄『古代オリエントの歴史』36頁)。このナルメルは、メネスと「同一人物」(小川英雄『古代オリエントの歴史』36頁)と推定されている。

 まだ「墳墓の建設にとりかかる余裕はな」く、「メソポタミアから輸入された日乾し煉瓦による建築法が、そのままもちいられて、箱型墳墓(マスタバ)がつくられた」(加藤前掲論文、382頁)のである。「第一王朝時代にパピルス紙が発明」(ロバーツ前掲書、170頁)され、「パピルス紙は羊皮紙より安上がりで、粘土板や石板よりはるかに薄くて軽いという長所」(ロバーツ前掲書、171頁)があった。マネトンによると、メネスは「かば」(敵対勢力)に殺され、以後「後継者たちは着々と専制君主政を築」き、「国内的には各地域(ノモス)の宗教の政治的統合、特に太陽神ラーの崇拝と王権の結合、芸術や建築、特にカナダやサッカラのマスタバ式墳墓の出現とナイル川東岸の岩山からの巨石切出技術の進歩、リビア、シナイ半島、紅海南岸、ヌビアなどへの掠奪遠征などが、王自らの指揮の下に行われた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』36頁)。

 灌漑 大水期には、「すべての耕地にゆきわたらせるために、洪水の水を分配」する必要があり、「水嵩によって、大体の収穫高の見積もりの基礎をあらかじめ定める」ために「第一王朝のはじめから、ナイル河の増水の嵩を記した年毎の記録が保存」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』154頁)した。「運河の開掘とか堤防とかは、普通、中央政府によって行われた」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』155頁)のである。

 「肥沃な沈泥の堆積をもった毎年の大水は、肥料の製造と、穀物の輪作を不必要とし」、「租税帳は、つねに水浸しになっている低地と、洪水の最高潮の時だけ水にみまわれる高地(放牧、野菜栽培に利用ーMS)とを区別」した。大水が引くと、「原始的な木製の鍬や鋤で仕事ができた」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』155頁)。

 そして、王朝時代初期から、ペル・ム(per mu)という「組織化された治水や灌漑専門の行政機関」があり、また、「エジプトでは、地方長官のことを“運河を掘る人”」と呼び、彼らをこう位置づけて「最大の収穫」「最大の貢租」をもたらそうとした(中島健一『河川文明の生態史観』117頁)。

 農業暦 紀元前3000年頃、太陰暦は「ナイルの氾濫の起こる時期」を示さないので、農業の必要から1年を365日とする太陽暦が発明された。

 「シリウス星とナイル川の増水の関係」(ロバーツ前掲書、162頁)に着目して、シリウスが明け方の東の地平線にひときわ輝く7月の半ばからナイルが増水し、翌年同じ場所にシリウスが輝く時に増水が再び始まり、この増水から増水までの期間が平均365日なので、これを1年として、これを示す暦を作ったのである(加藤前掲論文、391頁)。そして、1年を4月ずつ、氾濫の季節(アケト[今の7月半ー11月半])、作物を植える冬(ペレト)、収穫する夏(シェムウ)に区分した(加藤前掲論文、391頁、内田杉彦『古代エジプト入門』51頁)。これは「ナイル川の水利を活用しようとする初期エジプト人の知恵」なのである(小川英雄『古代オリエントの歴史』35頁)。

 1年を365日とすると、地球が太陽を約365.25日で公転することから1年間に約0.25日ずつ季節が遅れる。このずれが1年分(365日)に達するのにかかる1460年(365÷0.25)のことをソティス周期という。つまり、「1460年ごとに、暦のうえの元旦とソティス(シリウス)星の日の出時の出現との一致が7月19日に起き」、それは、「天文学上の計算」で「中王国センウセレト3世の治世7年目(前1872年)」にあたる。そして、このソティス紀元は「二まわり前の前3332年」の「農耕定住社会」の開始頃、第一王朝あたりから観測されたというのである(小川英雄『古代オリエントの歴史』35頁)。

 権力の課税 主穀物は「六条大麦やエンマ小麦」であり、「レタス、玉ねぎ、豆類、レンズ豆」も栽培された(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』155頁)。「穀物がある高さまで育つと、検査官が収穫見込みに基づいて税を課すためにそれを測った」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』155頁)。「種麦は小作人に貸し与えられ、耕作や運送のため幾組かの牡牛やロバが賃貸しされ」、大領主は「災難の年に、その債務を払えなかった小作人を救った」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』156頁)りした。

 穀物のみならず、運河、池、木、井戸、「家内産業の製品」、「余暇の仕事」にも課税され、「布、革細工、蜂蜜、油、ぶどう酒、野菜、猟師や漁夫の獲物、牧者の家畜の群のふえた分」を徴集した(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』156頁)。

 エジプト「単調農業」原型 こうしたエジブト農業が、以後のエジプト王朝の「単調性」を形づくったと言われている。

 つまり、「エジプトの長い歴史を通じて、現存の秩序を転覆しようという試みがなされ」ず、「一つの田園共同体を組織するというエジプト的な試みが全体として成功であ」り、役人の権利乱用はなく、「国家は、国家に仕えるひとびとに供給するために、あらゆる種類の品物を自由にできた」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』157頁) というのである。「第一王朝の中頃から第三王朝の末まで」は「地固めと実験の時代」であり、「エジプト文明形成期」であり、「ファラオ時代のエジプトにおける重要なことがらであり、この最初の偉大な創造時代にその根源をもたない者はほとんどなかった」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』69頁)というのである。だとすれば、それは、王朝の統治の特徴というよりも、そういうことを可能としたナイル川の恵みが既にこの時期からエジプト農業の「単調性」をもたらしていたとみるべきであろう。

                                 C 古王国時代(前2682年ー前2191年)第3−6王朝

 古王国(第3ー第6王朝)に巨大なピラミッドが建設され、中央集権制が確立した。

                                            @ 第3王朝

 第2代王ジョセルは、首都をメンフィスに定め、宰相(秘書)インホテップ(イムヘテプ)に宮廷を整備させた。宮廷は、「統治の中心機関」であり、「国家の中央集納庫」となった。

 ピラミッドと灌漑 第3王朝時代には、「メソポタミア人が大勢渡来」し、「メソポタミアからの影響が随所にみられる」。ジェセル王は石材階段ピラミッドをつくったが、これはメソポタミアのジグラッド(ウル第一王朝、「天界と地上を結ぶはしご」)が影響したと言われる(吉村作治『古代エジプト講義録』上130頁)。

 この階段ピラミッドは、南北545m、東西277mの周壁内部にピラミッド(ミイラ発掘、ジェセル王の墓と推定)、葬祭殿、神殿、セルタブ(死去すると飛び立つバーを迎え入れる場所)、セド祭殿(王位更新祭を行なう祭殿)を持つ複合施設である(吉村作治『古代エジプト講義録』上115−7頁)。第3代セケムケト王の階段ピラミッドでは、ミイラは発掘されなくなる。単なる王墓ではなくなっている。

 ジョセル王碑文(ナイル河の第一瀑布のあるサヘル島の花崗岩の彫り込まれている碑文)によると、治世7年間ナイルが氾濫せず、大飢饉に直面する。つまり、「ナイル河の水は7年間もやってこない。穀物は稔が悪く、あらゆる食料が不足している。誰もが隣人に対して泥棒になった。彼らは急ごうにも歩くこちができない。子供は泣きさけび、青年はのろのろと歩き、老人は頭を垂れたままだ。彼らは曲がってしまった脚をひきずってとぼとぼ歩く。宮廷の貴人の会議には誰もこない。食料箱の蓋をとっても中は空だ。なにもかも食いつくしてしまったのだ」(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、73頁[W・A・ダンドー、山本・斉藤訳、『地球を襲う飢餓』大明堂、1985年、86頁])と、農民の窮状が語れている。しかし、王が、神官インホテップの仲介で生贄を捧げ、祈祷を行い、アスワンの祭壇で神のお告げでクヌム神殿を修復すると、「翌年からはナイル川に氾濫がよみがえり、エジプトの大地は豊かな実りをとりもどした」のである。インホテップは建築家、天文学者などの称号ももっていたから、単なる祈祷のみならず、アスワンでメソポタミにある堤防をつくるなど水路灌漑工事をしたらしい。この功績でイムヘテプは都メンフィスに迎えられ、宰相になる。その彼が、メソポタミアのジグラッドを模して階段状ピラミッドを造ったようなのである(吉村作治『古代エジプト講義録』上126−136頁)。

 しかも、単なる模倣ではなく、ジョセルは、「先王朝時代から蓄積されてきた石材加工技術や建築技術」を駆使して、「王が死後も来世で王として君臨」しようとして、「初期王朝時代から行なわれていた国家的祭礼」たるセド祭(年齢とともに衰弱する王権を更新するためにエジプト各地の神々に供物を捧げるという王位更新祭)を祀るために、サッカラに「石灰岩のブロック」で東西121m・南北109mの「階段ピラミッド」(付属建造物を伴う「長方形の周壁[南北545m、東西277m]で囲まれた複合体」)を建設したのである(内田杉彦『古代エジプト入門』55−8頁)。つまり、この階段ピラミッドには、「周壁内に墳丘(太陽神だったホルスが天地創造を開始した『原初の丘』で「生命の源」)を持つホルス神殿や、カーセケムウイ王の葬祭周壁」に似ていて、「王をホルスの化身とする理念を壮大な規模で示した建造物」であり、王が昇天し北天の周極星(不滅の星)となって「永遠の生命を得る」ための手段でもあった(内田杉彦『古代エジプト入門』60ー61頁)。

 このように、エジプト人には死は終わりではなく、始まりであり、故にピラミッド単なる墓ではなく、「死後の世界を擬似体験するための空間、すなわち擬似来世空間」(吉村作治『古代エジプト講義録』上126−136頁)である。それがナイル氾濫により農耕復活と重なったと見る吉村説は、当時のエジプト灌漑農業を踏まえるとき、十分説得力をもっている。国王にこれだけの「贅沢」を可能にしたのは、農業生産力の増加、それによる農民の増加があったからであり、ナイル川の氾濫があったことは言うまでもない。

 農耕と開拓 そういうことから、ジョセル王、インホテップら王権側は、地方には王族を「代官」に任命し、「氾濫原の生産活動(農耕、家畜の飼育、漁労)を管理」(小川英雄『古代オリエントの歴史』37頁)した。人口密集地のデルタ地帯は「王権の直接的介入の下に開拓」され、「上エジプトではかつてのノモスの世襲制首長の勢力が根強く、彼らを通じての間接統治も行われた」。アラビア・ソマリア・パレスチナに「掠奪遠征」し「国内産業に劣らない収入をもたらした」(小川英雄『古代オリエントの歴史』37頁)のである。急増した麦収入は貯蔵されるわけだが、この維持に困って巨大建造物を造り、労働者を厚遇したという側面もあったかもしれない。いずれにしても、この「麦富」によって、ピラミッドなど「宮廷の文化は急速に発展」(小川英雄『古代オリエントの歴史』37頁)した。

 この第3王朝いおいて、「初期王朝時代に進行した中央集権的専制政治への道」が「完成」し、以後、「エジプトにはメソポタミアのような歴史的事件は乏しくな」り、「人種的変動も、地理的・政治的中心の移動も、支配領域の拡大も、原則として存在しない」(小川英雄『古代オリエントの歴史』37頁)ことになるのである。
 
 メソポタミアのように都市国家の対立抗争を経ずに確立されたエジプトの中央集権的専制国家は、「メソポタミアに例をみない急激な発展と高度な安定性とを併せ持」(小川英雄『古代オリエントの歴史』36頁)つことになる。

                                           A 第4王朝

 王領地増加 エジプト国内の開拓や入植地の建設は、「ピラミッド建設が始まった第三王朝の頃から盛んになり、特に真正ピラミッドの造営を開始したスネフェルの治世には、上エジプト北部からデルタにかけて、居住地や農園、牧場を持つ王領地が数多く設けられ」、こうした王領地からの「収益や労働力が、ピラミッドの建設・維持に活用された」(内田杉彦『古代エジプト入門』77−8頁)のである。

 そして、王族による宰相が官僚制度の頂点として導入され、宰相は大法官、記録保存所長、全官庁の長であり、こうした増加した王領地などの土地登記を担当していた(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』138頁)。

 巨大建築物  初代国王スネフェルは、階段型ピラミッドではなく、屈折ピラミッドと「方錐形ピラミッド」(真正ピラミッド)を造っている。屈折ピラミッドとは、「下半分と上半分とで傾斜角の異なる、変形した四角錐」ピラミッドであり、ミイラは発見されていない(吉村作治『古代エジプト講義録』上142頁)。方錐形の真正ピラミッドは、亡き王が昇天して太陽神となるのための「太陽光線を表現したもの」と推定されている(内田杉彦『古代エジプト入門73頁)。第三王朝の星辰信仰(北極星信仰)にかわって、太陽神信仰が優勢となり、王称号も「サー・ラー」(太陽神の息子)となったようだ(吉村作治『古代エジプト講義録』上142頁)。農業豊穣の原因としてナイル川と並んで太陽が重視され、王は太陽神の息子とされたのであろう。

 第二代クフ王は、高さ146m、底辺230m、石材ブロック200万個の最大のピラミッドを建造した(内田杉彦『古代エジプト入門』68頁)。しかし、「スフィンクス巨像」をともなう巨大ピラミッドを建設したケオプス(第二代国王クフ王とも言われる)、ケフレンは、ヘロドトスから「圧制者」(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)とされている。「巨大なピラミッドの建設は国家の中央集権的組織をますます強固にさせ」、「役人、神官、工芸職人などへの依存度が増大」(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)した。巨大ピラミッドを生み出す農業生産力が当時の総人口160万人を維持し、そのうち2.5万人から3万人がピラミッド建設賦役として「一定期間ずつ交替で動員」(内田杉彦『古代エジプト入門』76頁)された。この大型建築は明らかに農民の負担で可能になったものであり、さらなる農業生産力の増加、王権の財政的基礎の確立を促した。農業がピラミッドを生み、ピラミッドが一層の農業の成長を促すというわけだ。

                                           B 第5王朝

 灌排水システムの整備 紀元前2512−2200年の第5ー第6王朝の頃、「温暖・乾燥化」して、ファラオを軸とした集権体制発展によって、「灌排水システムはいっそう整備され、改善」され、「貯留式(ベイスン)灌漑農法の発展」によって、「王領地は拡大し、王室の経済力も豊かになった」(中島健一『河川文明の生態史観』116頁)。

 王権祭祀の整備 王権の財政的基礎が固まるに応じて、「ヘリオポリスのラー神の聖所には強力な神官団が現われて、王の神格化を中心とする公認宗教の理論を成立させた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)。「サフラー王(2代)以降、多くの王の名前にラーという言葉が入っている」が、最後の二人の王の時代、「太陽神殿を建設するのを止めて」「祖先崇拝に戻」った(吉村作治『古代エジプト講義録』上233−4頁)。

 ラー神官団の勢力拡大を懸念して、王権側はピラミッドを太陽神信仰に結びつけることを止めたのであろう。さらに、ラー神官団に対抗するには民心を掌握する必要もあり、民衆負担を緩和するために、「ピラミッドは小型化」し、「代わって葬祭殿における祭祀が重要視」されたのであろう(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)。「外国との関係も改善され、貢税が定期的に送られる場合もあった」(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)ようだ。

 地方豪族の登場 さらに、第5王朝では、「王族以外の貴族が高官に任命」され、官僚の職務と任地(各地の州ノモス)が土着を通して、世襲されだして地方豪族化して、王の任免権は形骸化して、官僚の権力が強くなり、「これまで王家に集中していた政治権力が分散する」ようになった(内田杉彦『古代エジプト入門』91−3頁、立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)。

                                            C 第6王朝 

 地方権力の跋扈 第6王朝では、「富と権力の分極化が進み、ウニに代表されるような宰相、世襲化した地方の代官、ノモスの古い家柄の首長などがそれぞれ独自の力を貯え」てきたため、「ヌビアやシナイ半島では原住民の叛乱が起きた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)。宰相は「王宮の長官兼警備長」であり、行政機構は、「神の出納官」を長とする国庫、農業省である(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』138−9頁)。「世襲の官職と財産は、役人をしてもはや宮廷の機能にだけ依存しない土地所有者に変え」、「中央政治が完全に衰退」した第6王朝末期において、世襲役人の権利を強め、「それぞれの地方においては法と秩序の保持のために責任を負うという立場にた」ち、「彼らの所有地の荘園は小宮廷に変じた」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』142頁)のである。

 統一王朝の終焉 ペピ2世(紀元前2278年 - 紀元前2184年)の長い治世が終わってしばらくののち、「第一中間期と呼ばれる分裂の時代」に突入した。古王国時代末期、「パレスチナ地方にたびたび遠征軍を派遣」(ロバーツ前掲書、179−180頁)した。

 「南北に細長い地形と地域単位で運用される貯留式灌漑システムが、一度動き始めた分権化を推進」(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)したとも言えよう。

                             D 第1中間期(前2191−前2020年)第7−11王朝

 第6王朝の滅亡以後、約150年間、「王権は名のみとなり、各地に州侯が自立、いわば『封建時代』が出現」(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)することになった。正確に言えば、「封建時代」ではなく、「群雄割拠」時代というべきであろう。

 農業生産増大 第一中間期には、農業生産増大で新興富裕層が登場して、「社会的混乱の時代」(小川英雄『古代オリエントの歴史』48頁)となった。情勢が急変して、「王権が弱体化し、国土が上下エジプトに分裂」し、「他国から攻められるようにな」(ロバーツ前掲書、180頁)った。「驚異的な発展と繁栄の後の急激な混乱の時代」(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)となった。

 地方の農業生産が増加すると、その新しい富をめぐって新興勢力が対立し、争ったのである。
 
 地方権力の氾濫原経営混乱 下エジプト(第7、8王朝、都はメンフィス)では、「前には富裕で権勢のあった者が今はぼろをまとい空腹をかこっている一方では、以前の貧民が財産と権力をえて」、「法の無視が行われ」、「ファラオたちのピラミッドを含めて、墳墓は略奪され」(フランクフォートら前掲書、122頁)た。一種の社会革命状態になったともいわれる(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)。「地方政府が税の支払いを拒んだとき、農業の中央統制は潰え去」り、「氾濫期にさえ、誰ひとり鋤をとる者はなかった」(フランクフォートら前掲書、122頁)。

 「財産と社会的地位の旧い規範は崩壊」し、「道徳に無関心な享楽主義」がはびこった(フランクフォートら前掲書、126頁)。「氾濫原の経営は地方的勢力の手に委ねられ、それまでの支配者たちの時代にはみられない、収入の激減を招」き、「一種の下克上」が行われ、「王墓は暴かれ、盗賊が横行し、世相は一変して無秩序状態」(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)になった。

 こうして、エジプト第一中間期に、ナイル河のみならず、「灌漑水路と道路が放置され、商業と建設事業が停止し、作物の栽培が滞」り、「山賊どもが収穫をさらっていってしまうので、種子を播く気力もなくな」って、大飢饉がもたらされた(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、74頁[W・A・ダンドー、山本・斉藤訳、『地球を襲う飢餓』大明堂、1985年、86頁])。

 外国侵略と国家統一 さらに、外国がこの混乱を利用してエジプトに侵略してきた。 「カイロ近郊に侵入者の王朝が起こ」り、「メンフィスはすっかり衰えてしま」(ロバーツ前掲書、180頁)った。「エジプトの支配の内部崩壊が彼ら(アジア人)の小集団を誘った」のであり、こうした侵入者は「崩壊の原因というよりも結果らしい」(フランクフォートら前掲書、121頁)のである。

 第7王朝(下エジプト)には、「マネトンによると、70日間に70人の王が現われ」、王朝は「紛争が続いて自滅」(小川英雄『古代オリエントの歴史』38頁)し、第8王朝もメンフィスを都に樹立された。

 しかし、第9−10王朝(前2145−2025頃、上エジプト)では、「上エジプトの一ノモスの首長の手でファイユーマの南方ネン・エスウェトに王朝が成立」した。王たちは、下エジプトの「デルタ地帯からアジア人を追い払うなど全国統一のための努力をした」(小川英雄『古代オリエントの歴史』39頁)。第10王朝に対抗して、第11王朝(上エジプト)が「より南方に位置し、古王国時代には一村落に過ぎなかったテーベ」に誕生した。4代目の王メントゥヘテプ2世(前2060年頃即位)が、「下ヌビアの資源と傭兵を手中」(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)にして、「デルタ地帯から第二急湍(だん)までを版図とする、ナイル川流域国家の統一に成功」(小川英雄『古代オリエントの歴史』39頁)した。

 富の批判と倫理の強調 こうした混乱の中で、「無謬と考えられていた創造神」への批判、社会正義の強調がなされ、「人生の真の価値は富にあるのではなく、倫理的な行動にある」(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)とされた。

 このように、エジプトで初めて富批判と倫理重視の方針が打ち出されたことは大いに注目されよう。というより、エジプトで、正義とか倫理が初めて提唱されたということは、人間精神史上で最大限に重要なことである。結局、これは、秩序回復とともに、「傍流の位置に落とされ、伝統的な思想が復活」(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)したと言われれる。だが、必ずしもそうではないようだ。


                             E 中王国時代(前2020年ー前1793年)第11−12王朝

                                          @ 第11王朝

 肥沃テーベ侯の躍進 紀元前2025年第11王朝5代メンチュヘテプ2世(テーベ侯、メンチェ神殿神官出身)がヘラクレオポリス王朝を滅ぼして、エジプトを再統一した。テーベは、「ナイル川が大きく湾曲して流れているため、土壌が肥沃であり、農産物の収穫量が昔から豊かで」、「そこに集まる人口も多く」なり、そこに強大な権力が発生した。デルタ地域には、多数のノモスがあり、「氾濫の冠水の期間が長いという弱点があった」が、テーベでは、「上流であるため冠水の期間もそう長くはなく、しかも一帯を支配しているのは、たった一つのノモスにすぎ」(吉村作治『古代エジプト講義録』上250ー1頁)ず、テーベに権力が集中しやすかった。

 だが、農民の生活は悲惨であった。この第11王朝時代には、飢餓で人が食べられだし、「テーベ出身のある男が母親に、男も女も食われていると書いた」のである(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、74頁[W・A・ダンドー、山本・斉藤訳、『地球を襲う飢餓』大明堂、1985年、86頁])。

 ラー神再評価 このメンチェヘテプ2世の時代に、ラー神信仰が農耕の観点と上下エジプト統一(アメンは上エジプトの神、ラーは下エジプトの神)の必要からか再評価され、「アメン神はラー神と合体してアメン・ラー神となり、国家の最高神としての地位を確立」(252頁)した。しかし、王の死後、「性急な中央集権化に反撥した地方豪族に担がれ」(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)て、宰相アメンエムハトがクーデターを起こし第12王朝がはじまった。

                                           A 第12王朝

 干拓と灌漑 第12王朝が中王国の最盛期となる。初代王アメンエムハト1世は、都をテーベにおき、「ふたたびナイルの谷を統一して、平和と繁栄をもたらした」(加藤前掲論文、398頁)。アメンエムハト2世・センウセレト2世の治期50年間に農業生産増加のために耕地開発が行われ、センウセルト2世治期に大規模な堤防でナイル川からの流水を防ごうとして、湿地帯が広がるファイユーム(上エジプト北部)に堤防が築かれた。

 初期の王たちは、「ファイウム地方の開拓」に着手し、「ナイルの水をいっそう有効にもちいるために、定期の氾濫の時期と量とを」的確に知るようにつとめた(加藤前掲論文、398頁)。この「ファイユームの干拓工事による農業生産の増大」と、日常生活における分業の普及(料理人、給仕、案内人、農夫、園丁、パン屋、ビール職人、洗濯人など)が「一般人の生活を向上させた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』39頁)。再び「物質的に豊か」になった。

 さらに、産業としては、「農産物は大小の麦、果物や野菜」のみならず、「畜産や製油業や紡績のような産業、また漁業や狩猟の収穫も豊か」であった。 「ヌビアやシナイや山岳地帯では奴隷と捕虜の労働力によって金、銅、貴金属が産出」された。木材は「ナイル川の両岸の砂漠地帯の周辺」で得られたが、「輸入された」。「国家が土地と鉱山の所有者、家内手工芸の組織者として全生産活動を支配」(小川英雄『古代オリエントの歴史』41頁)した。まだ商業は未発達で、「運河とナイル河支流」を利用した「通商」は未発達で、「メソポタミアの場合のような都会生活は発達しなかった」(小川英雄『古代オリエントの歴史』41頁)。

 この富を背景に、「軍隊と隊商との遠征の時代でもあ」り、エーゲ海のクレタ島との貿易が行われた(加藤前掲論文、399頁)。エジプトの経済的影響力は「シリア、そして、フェニキア経由でクレタ島に拡大」(小川英雄『古代オリエントの歴史』39頁)した。

 王の神格化と強大化 この勢力拡大と統一の政策は、「新しいかたちの神権政治の誕生と対応し」、地方の神々は「第12王朝が崇敬するヘルモポリスのアメン神に代わられ」、再びアメンは「ヘリオポリスの太陽神ラーを吸収」してアメン・ラーとなった(小川英雄『古代オリエントの歴史』39頁)。「社会の秩序と結束」が重視され、ファラオ神格化が強化され、「ファラオは神であるだけでなく、神々の子孫」(ロバーツ前掲書、180頁)とされた。さらに、「アメン・ラー神を中心に、神々が整理統合された」。「王自身神であり、ホルス神の子、アメン神に愛される者、そして、ラー神の子」(小川英雄『古代オリエントの歴史』40頁)であり、メソポタミアのように「神殿を媒介」したりすることはなかった(ロバーツ前掲書、181頁)。

 さらに言えば、古王国のように、「麦富」の使途に関して、@軍事力拡充と遠征の費用に当てたり、堤防工事費を捻出することが優先され、Aもはや王権神格化や王権再生を巨大ピラミッドなどに仲介される必要はなくなり、アメンハトプ3世以降はピラミッドなどを造る費用に充当する必要はなくなったのである。

 Aを神学的に指導した神官たちは「有能な行政官、政治家」となり、「王家の商業活動を管理」(小川英雄『古代オリエントの歴史』40頁)した。「古王国時代に発展した中央集権制官僚組織」がこの12王朝期に完成し、「国家は王の個人的な財産であり、宮廷の召使いたちは同時に高級官吏、すなわち、タティ(宰相)以下の官僚や書記」(小川英雄『古代オリエントの歴史』40頁)となった。地方の「代官」権力は「時として無制限に行使され」、「王権が弱まると独立的傾向」を強めた(小川英雄『古代オリエントの歴史』40頁)。

 王のもとに「南北の上下両エジプトの国土の支配権が統合」し、「植物パピルスと蓮の組み合わせ」・「葦と蜂」の組み合わせからなる王冠がそれを象徴し、王の任務は、「王国の秩序と正義、そして経済的繁栄を確保」することになった(小川英雄『古代オリエントの歴史』40頁)。「王たちの収入は巨額」であり、現物税は「国家の中央倉庫」に貯えられた。

 道徳と正義 「絵画、彫刻、金銀細工」などの専門家は「農民と変わらない身分」であり、「王や有力者の近くに仕え、生活はより豊か」である。兵士は「まだ数が少な」く、「その大部分はヌビア人の傭兵」で、「土地の割り当てを受ける権利があり、それを通じて王室に奉仕し、エジプト社会に同化」した。王族・有力者は、「特権をもち、高い教育を受け、神官にな」り、「王の贈与と神殿領の経営が彼らの富の源泉」(小川英雄『古代オリエントの歴史』41頁)となった。書記になるものもいて、「国家に奉仕」し、「一般民衆」を搾取し、王権弱体時には権力を濫用した(小川英雄『古代オリエントの歴史』42頁)。

 完全な平等はまだなかったが、「水の入手の平等さの保証」がみられ(フランクフォートら前掲書、130頁)、「来世の民主化と神々への一層の愛慕、これがこの期の重要な変化」(フランクフォートら前掲書、131頁)であった。以前は「死んだ国王だけがオシリスになった」が、「いまでは死んだエジプト人はみなオシリス神」になり、来世で人格を審判するのはこの「死者の神オシリス」であった(フランクフォートら前掲書、131頁)。

 中期王国は、「よき生活の探求において、道徳的な極点に達した」(フランクフォートら前掲書、127頁)。ファラオ・官吏らに「社会的正義、同胞に対する正しい行ない」、「社会的的責任」が求められた(フランクフォートら前掲書、132頁)。

 さらに、王権は、富裕な庶民の子弟を対象に、「忠良な臣民の利点を説く教訓文学」、「王権の賛美をしのばせた『シヌへの物語』」、「混乱を救う王として予言されていたとして登位を正当化する『ネフェルティの予言』」など教材にして(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)、王権への忠誠心を教育したのである。神官や書記を対象にしていないのである。

 また、初代王アメンエムハト1世が、王位継承を安定化するために「長子センウセルト1世を共治王に指名」したのも(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)、父子の倫理的関係を基軸にしようとしたのであろう。センウセレト3世は、「第一中間期の間に根を張っていた地方の世襲的勢力による税制や行政」を廃止し、「宮廷とその官僚機構」が統治の中心となり、「再び中央集権を確立」(小川英雄『古代オリエントの歴史』39頁)した。

 第12王朝の諸王は「中央集権を回復し」、役人は「主人たる王が擁護者である世界秩序の一端」となり、「賢明」「冷静」な「沈黙の人」となった(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』142頁)。しかし、アメンエムハト3世の死後、王権は再び衰微した(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)。


                            F 第2中間期(前1794年ー前1550年)第13−17王朝

 ヒクソス侵略と内乱 ヒクソスが戦車を駆ってデルタ地帯に移住した。ヒクソスは「西アジア、特にアナトリアにいたこの民族諸部族の混合した移住民」で、前20世紀から前19世紀にその前衛部隊がシリア、パレスチナ、エジプトに現われ、「半遊牧の生活を送りながら、定住地への侵入の機会をうかがっていた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』47頁)。このヒクソス侵入は、エジプトには、外部侵略をいざなう富ーナイル灌漑農法の生み出す富が「健在」だったということを示していよう。

 そして、第12王朝のもとで、「これらの半遊牧の集団はやがて都市を建設し、セム系住民とともに王政のもとに入」り、「諸都市は互いに独立し、郊外の領土をもち、幅の広い土塁の上に日乾煉瓦の厚い城壁をめぐらせ」、ヒクソスのもたらした戦車戦法の攻撃に対応しようとした(小川英雄『古代オリエントの歴史』47頁)。

 この「ヒクソスの出現」は、「王となった彼らの指導者たちの名前に、印欧語族のものがあること」、「彼らの社会組織は初期においては遊牧民のそれであったこと」、「彼らの残した土器の特異な渦巻文様は印欧語族が定着したほかの土地、とりわけエーゲ海域やキプロス島で見出されたものと似ていること」、「馬や猿が重要な役割を演ずる葬祭」・「主要な武器」たる二輪戦車は「オリエント世界にはみられない」ことなどの諸点から、「前21世紀に始まった印欧語族の大移動と密接な関係」を示す(小川英雄『古代オリエントの歴史』46頁)。

 ヒクソス王朝 ヒクソスは、メンフィスに拠点を置いて、第15王朝を起こし、タニス(デルタ地帯の東辺)に「城壁つきの大都市」(小川英雄『古代オリエントの歴史』48頁)をつくり、エジプトは「ふたたび分裂と内乱の時代」に突入した(加藤前掲論文、400頁)。「ふたたび中央政府は倒壊し、ふたたび一群の小君主による支配の争奪がおこ」(フランクフォートら前掲書、134頁)り、「ヒクソスと呼んでいるアジアの君主たち」がエジプトを武力で支配しようとした。テーベはヒクソス王朝に朝貢した(ロバーツ前掲書、181頁)。

 富批判と謙遜道徳 ヒクソス王朝は反抗を芽を摘み取ろうとしてか、謙遜の精神を教え込もうとした。この時期の発達した精神にとっての合言葉は<沈黙>」であり、この沈黙は「穏和、黙従、静謐、従順、謙遜、柔和」(フランクフォートら前掲書、138頁)でもあり、権力には好都合であった。

 これによって、貧者をはじめ、エジプト人は、「謙遜の精神」を余儀なくされた。官吏にとっては「恭順な沈黙」が「究極の成功」をもたらし、神も「声の高い者よりも口数のすくない者をあいされた」(フランクフォートら前掲書、139頁)。いまや「人間は、神が命じることに従わなければ、特にまたつねに失敗する」(フランクフォートら前掲書、140頁)とされた。依然として「カァは人間の一生に影響」する「人格の部分」ではあったが、「いまでは運命の神と幸運の女神は、ずっと遠くに、しかし不動の支配力をもって、人格の外に立っていた」(フランクフォートら前掲書、140頁)。だから、「運命と幸運とを度外視することは許されない」から、「心を富の追求に向けるな」とされた。運命の神々を無視して、富を追求するなとされた。

 国家宗教の優越 民衆は、「わたしの女神を大声で叫」ぶと、女神は「やさしい態度」で現われ「慈悲をたれ」、「これまでわたしを苦しめてきた病気をわたしに忘れさせ」たのである。しかし、「彼は彼の弱さに慈悲を垂れたおのれの個人的な神が、やはり自分と同じように小さくて力弱いことを知」り、「また国家的な神であるエジプトの偉大な神々が、富裕で、深淵で、強大であるとともに強要的であることを知った」のである。「エジプトの神官はなお権力と支配力を増しつつあり、諸々の神殿に権力と支配力を与えた体制への盲目的な随順を要求」(フランクフォートら前掲書、142−3頁)した。

 やがて「宗教という精神的な支えの探求は、代わりに神託や厳格な祭式の遵守に頼ることになって、ついに宗教はヘロドトスが見たような空疎なものとなったしまった」のである。「国家的な順応体制の束縛の中では、・・神たる国王でさえも法律の単なる傀儡」となり、「エジプトでは双方にとって為になるような条件で個人と共同体との相互関係をつくりだす機会或いは能力をもたなかった」(フランクフォートら前掲書、144頁)のである

 ヘブライ、ギリシァへの影響 ヘブライ人、ギリシァ人は、「<エジプト人たちの全的な知恵>について漠然とした無批判的な共感」をもち、彼らの哲学から「歴史的な枠組みの恩恵」をうけた。それは、「美術と建築や、政府の組織や、さらに幾何学的秩序の感覚」への好奇心である。エジプト文化は、「後代に文化的な遺産として伝えることができるようななんらかの哲学を発展させるには、あまりにも早くその知的精神的な高みに達してしまった」(フランクフォートら前掲書、145頁)のである。

 独立戦争 テーベが、ヒクソスへの「民族主義と抵抗の拠点」になった。テーベ王セケンエンレーは戦死し、彼の子供イアフメスらがヌビア傭兵と「馬と戦車」で「民族解放のための戦い」を推進した(加藤前掲論文、401頁)。イアフメスは、「レーを知らないで」侵略してきたヒクソスらを駆逐したのみならず、「彼らが決して二度とナイルの国土を脅かすことがないように」アジアまで追跡し(フランクフォートら前掲書、134頁、加藤前掲論文、402頁)、エジプトは帝国化した。さらに、帰国後、「まずヌビアを討ち、ついで国内の豪族の反テーベ連合軍」を制圧し、国内を統一し、第18王朝の祖となった。

                             G 新王国時代(前1550年ー前1070年)第18−20王朝

 新王国時代には、ヌビアのみならず、先進地のパレスチナ、シリアを制圧し、こうして外国を植民地支配しはじめ、「帝国時代」とよばれ、「最盛期」(ロバーツ前掲書、181頁)を迎えた(加藤前掲論文、403頁)。そして、アメンヘテプ系とトトメス系の二王統が交互に王位を継承した(小川英雄『古代オリエントの歴史』55頁)。

 この新王国時代には、灌漑農業や農民の姿はほとんど表面に出なくなる。それは、軍備増強、軍事遠征、帝国主義的支配、神官団の跋扈が前面にでてきたということからだけではなく、塩害で麦作生産性が衰退して国家存亡危機に直面しだしたメソポタミア、インダス文明とは異なって、基本的にはエジプトでは貯留式灌漑農法が塩害発生を防止して、高い生産性を維持し、「穀倉」としての位置を維持していたからであろう。しかし、国家は、「永遠」の存続を願って、軍事力増強・遠征による外敵抑制、神殿建設、神官団抑制のための宗教改革などにその富を費消して、まだまだ民衆の生活向上に富を使う余裕はなかったのである。
 
                                       @ 第18王朝

 イアフメス1世 第18王朝初代王イアフメス1世(前1550年ー前1525年)は、異民族支配を防止するために先制攻撃をかけ、前1550年にタニスを占領し、「ヒクソスの支配をくつがえし」た。ヘブライ人を含む移住民たちは、「抑圧された状態に追い込まれた」のであった。以後、エジプトは、大きな富を蓄えていた「シリア・パレスチナの保護領化」と代官によるその収奪、と「西アジア文化の摂取」に着手した(小川英雄『古代オリエントの歴史』50頁)。

 アメンヘテプ1世 2代アメンヘテプ1世は、「エジプトを守るいちばんいい方法は、まわりの国々を属領にしてしまう」として、カナン地方、ヌビア地方、リビア地方に遠征した(吉村作治『古代エジプト講義録』講談社、下、1994年、51頁)。

 トトメス1世 3代王トトメス1世もまた、異民族侵略を防止するために先制攻撃をかけ、「ヒクソスから学んだ戦車戦術」で西アジア進出も行い、「ユーフラテス川上流のナフリン地方」に達した(加藤前掲論文、402頁)。トトメス1世はカナンの町々を征圧し、朝貢を義務付ける属領にしつつ、「ある程度の自治は認め」(吉村作治『古代エジプト講義録』下57ー8頁)たのであった。

 ハトシェプスト女王 トトメス2世(前1518−前1504年)の王妃ハトシェプストは、トトメス3世(前1479−前1425年)が幼少であり、実子でなかったので、即位させずに、自らが「前例のない女王」(ロバーツ前掲書、182頁)となった。ハトシェプストは摂政となり、腹心センムトのもとに自らファラオと宣言し、トトメス3世の後見人となり、トトメス3世との共治王となって、平和的外交政策を推進したぼである(吉村作治『古代エジプト講義録』下71頁、78頁)。彼女は、「平和的な外交」を推進し、「戦争による侵略より、商業による発展をもくろんで成功」(加藤前掲論文、407頁)した。

 トトメス3世 ハトシェプストの退位後にはトトメス3世は平和外交を改めて周辺諸国に遠征し、史上最大の帝国を築いた。中でもメギドの戦いは、複合弓の使用、死者数などの記録(カルナック神殿のヒエログリフ記録)が残る歴史上最古の戦いとされている(大城道則『古代エジプト文明』講談社、2012年、133頁)。

 
トトメス3世は、「パレスチナはエジプトに忠実な小都市国家の分立する地」(マイケル・ローフ前掲書、134頁)とした。「当時オリエントの有力な国々はすべて外国領に対する支配を狙っていたので、それらの国々は、王国ではなく、帝国と呼ばれ」、エジプトでもトトメス3世(前1479年ー前1425年)は17回の遠征を行ない、「新帝国」と呼ばれることが多くなる(小川英雄『古代オリエントの歴史』50頁)。

 こうした帝国の興隆とともに、ラーは「テーベの市神アモンと結合し、アモン・ラーとして国家の最高神に上る」(加藤前掲論文、397頁)傾向をますます強めていった。王たちは、「この神に多くの戦利品をささげ、またさかんに壮大な神殿を建立」し、やがて、「国土の三分の一」がアモン神に属した(加藤前掲論文、404頁)。

 彼の息子アメンホテプ2世(前1427年ー前1401年)も、ミタン二王国のニヤ、カデシュを占領した(マイケル・ローフ前掲書、134頁)。その結果、トトメス3世からアメンホテプ3世までの1世紀(前15世紀ー前14世紀)で、エジプトは「最大の版図」を領有し(加藤前掲論文、404頁)、「絶頂期」(ロバーツ前掲書、183頁)を迎えた。各地から貢ぎ物や奴隷がエジプトに届けられた(ロバーツ前掲書、182頁)。

 こうして、エジプトは、「孤立主義」から「国際主義」に移ることを余儀なくされ、王は武将の性格を強め、常備軍を設置した(加藤前掲論文、404頁)。

 トトメス4世 トトメス4世(前1401−前1391年)は、ミタンニと友好関係を結ぶ(マイケル・ローフ前掲書、135頁)。首都テーベには、「世界の中心として各国人」が群がり、「宮廷生活はいよいよ華美」となった(加藤前掲論文、405頁)。

 アモン・ラーの信仰は「、一神教的な性格をもつようになり、アモンの神官たちの政治への介入が、目立つようになっ」(加藤前掲論文、405頁)てきた。彼らは、「遠征の勝利と大帝国の建設は、国家神アメンの加護による」(屋形禎亮「古代エジプト」)と主張していたのである。これに対して、王権側は、「遠征の勝利も帝国の建設もファラオの力によってなされた」(屋形禎亮「古代エジプト」)と反論しだした。

 アメンホテプ3世 アメンホテプ3世は、慣例を破って、アモン第二司祭ではなく、宰相プタハメスをアモン大司祭に任命した。これに対して、アモン神官団がアモン大司祭の後任にアモン神官出身のメリプタハを擁立した。アメンホテプ3世は、これを牽制すべく、アモン大司祭就任を慣例とする「上下エジプト神官長」を独自に登用し、かつ新たに太陽神アテンを育成した(屋形禎亮「古代エジプト」)。

 アメンホテプ4世ー宗教改革 10代王アメンホテプ4世(前1353ー前1335年)は、こうしたアモン神官団への対抗を一層推進した。彼は、若くして「ヘリオポリスの原始太陽崇拝」の影響を受けてアトン教(太陽崇拝教)を創設し、イクンアトン(独語Echnaton。英語ではアクエンアテンAkhenaten]。アトンに奉じる者)に改名し、アモン神官団の影響をうけないように、テーベからアケトアトン(後のアマルナ)に遷都した(加藤前掲論文、408頁)。

 アメンホテプ4世らは「以前の王室の宗教にも日輪崇拝が頭をもたげていたし、ヒクソス以来アジアの太陽神崇拝はエジプトによく知られてい」(小川英雄『古代オリエントの歴史』56頁)て、これを利用したのである。このように、アテン信仰は、「アクエンアテンと王妃ネフェルトイティを中心とした王族や新しい官僚たちのための独占的な宗教であり、一般大衆の支持はほとんどなかった」(大城道則『古代エジプト文明』講談社、2012年、89頁)のである。

 しかし、新都テル・アル=アマルナでアクエンアテンは「理想的」政治を使用とした。アケト・アテン(アテンの地平線)の記念碑には、「この土地は、いかなる神や女神、王や王妃に属するものでもない、所有者としてこの土地を支配する者は誰もいない」とある。この平等主義を実現すれば、農奴・小作人などは自作農となって、民衆の支持をうけたろうが、単なる理想にとどまったようだ。アメンホテプ4世は「理想主義者」で、「権力闘争や戦争といった世俗的なことには、いっさい無縁の人」で、「自由に考え、自由に表現できる社会」をめざした。アクエンアテンの政治は、「理想だけが先走りし、非現実的なもの」となり、「愛があれば、それでいい。他には何もいらない」(吉村作治『古代エジプト講義録』下121−5頁)ものだったようだ。

 彼が実行したことは、「アトンの一神教をおこなわせ、戦利品で富み世を風靡していたアモン教をいっさい禁じ」たことぐらいであった。この「アクエンアテンの日輪(アテン)を唯一の神とする信仰」は、「ほかのどの古代宗教よりもヘブライ人の一神教(ユダヤ教)に近いばかりでなく、世界主義的傾向においては、民族主義的ユダヤ教ではなくキリスト教にさえ近づいている」し、また、「その排他的、政治的性格は古代末期の国家宗教、すなわち、4世紀以後のローマ帝国のキリスト教や3世紀以後のサーサーン朝のゾロアスター教を先駆してい」た。それだけに、「彼が自分の神を表わすのに使った、日輪から発する光線上の腕とその先端の生命力のシンボル(アンク)を握る手のモチーフは、それ以前のエジプト宗教の図像とはまったく絶縁したもの」(小川英雄『古代オリエントの歴史』56頁)であった。ここには、「印欧語族にもセム語族にも共通な太陽神を総合して、その周囲に全オリエントの融合を図るという強力な主張がある」(小川英雄『古代オリエントの歴史』56頁)のである。王権専制化には、こういう排他的一神教が適合的な場合もあれば、融合的一神教が適合的な場合もあるのである。それは、一に王権の置かれた政治経済状況の如何による。

 王が宗教改革に熱中している時、「シリア、パレスチナでは、エジプトの支配が動揺」し、ヒッタイトが両地方に進出した。ヒッタイト帝国は、「シリアやファニキアに進出し、エジプトに対抗して婚姻政策によって・・ミタン二王国を中立化」(小川英雄『古代オリエントの歴史』53頁)した。当時、エジプトは、3人の総督(ガザ、シムッル、クミドゥに設置)でこの地を支配していた。各地の王はアメンホテプを「太陽王」と呼んで、臣従し、遊牧民の脅威・領土侵犯に支援を要請した(マイケル・ローフ前掲書、136頁)。アマルマ文書には、王はヒッタイト王シュッビルリウマと、「ヒッタイトとエジプトの間の友好関係を維持する目的でしたためたものがある」(マイケル・ローフ前掲書、137頁)。アメンヘテプ4世は「約30年間対外協調の路線を歩」(小川英雄『古代オリエントの歴史』53頁)み、最後に王は「病弱と失意」のうちに死去した(加藤前掲論文、409頁)。諸改革は中止され、アモン教が復活した。子の「ツタンク アトン王」は「ツタンク アモン」と改名し(加藤前掲論文、409頁)、「伝統的な神と王との共存関係こそがあるべき姿」(屋形禎亮「古代エジプト」)とされた。

                                              A 第19王朝 

 第19王朝は「軍事活動」を再開した(小川英雄『古代オリエントの歴史』54頁)。セティ1世(前1290−1279/78年)は、「パレスティナとフェニキアの港を占領した後、ヒッタイト軍」を破った(小川英雄『古代オリエントの歴史』54頁)。地方の役人は、中央政府の役人と同じく、「ファラオの代理人」であり、12階級あった(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』141頁)。

 ラムセス2世 ラムセス2世(前1279−1213年頃)は、「古代エジプト史上最強のファラオ」(大城道則『古代エジプト文明』講談社、2012年、122頁)であり、国外では「多くの戦闘行為を行なった」(大城道則『古代エジプト文明』125頁)のである。

 彼は、「イクンアトンの失ったものを、ふたたび回復」(加藤前掲論文、416頁)した。テーベに神殿、カルナクに百柱殿(「世界最大の建造物の一つ」)、アビュシンベル(ヌビア地方)の神殿など、「大建造物を多くのこした」(加藤前掲論文、416頁)。だが、アマルナ革命時代にヒッタイトに奪われた旧アムル州の奪回は困難であり(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)、シリアでは、鉄と戦車で「ヒッタイトの進出がめざましく、エジプトの威令はおこなわれなくな」(加藤前掲論文、416頁)っていた。ここに、ヒッタイトとの間に、「パレスチナを舞台に領土争いが長期にわたってくり広げられ」(ロバーツ前掲書、185頁)ることになった。ヒッタイト側は、「同盟国の連合軍を結成」し、ラムセス2世を「不利な戦局に導」(小川英雄『古代オリエントの歴史』54頁)いた。

 そうしたエジプト・ヒッタイト戦争の一環としてのカデシュの戦い(前1275年頃)は「世界最古の詳細な記録」を持つ戦争で、エジプト兵団2万人の編成内容(アムン・ラー・プタハ・セト4師団、50人編成の小隊、250人編成の中隊[司令官設置]、兵士5千人規模[20中隊]の師団。王族・王側近が指揮)や、「世界最古の平和条約文書」などが知られている。一般的に引き分けとされているが、「戦闘後、実質的にカデシュを獲得し管理下に置いたのは、明らかにエジプトではなく、ムワタリのヒッタイト」であったから、「勝者はヒッタイト」(大城道則『古代エジプト文明』講談社、2012年、134−7頁)とするのが妥当なようである。しかし、ヒッタイトはアッシリアの脅威を覚えて、エジプトと平和条約=相互援助協定と婚姻関係を結ぶことを余儀なくされたようで、以後50年間、ヒッタイト優位の下に「二大国の協力による古代オリエント世界の支配」(小川英雄『古代オリエントの歴史』54頁)が推進された。

 「統治期間があまりに長かったので、知らぬ間に国土が荒れ」、ここでアメンの神官団は「アクエンアテンの宗教改革を元に戻し」て「利益をあげていた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』57頁)。アメンの神官、特に「第一預言者と呼ばれた大神官」は「国家内国家の首長のようになり、多数の神官や役人や農民、奴隷を使い、国内政治に干渉」(小川英雄『古代オリエントの歴史』58頁)した。アメンの神官たちの政治的・経済的役割は増大した。

 それに対して、ノモスの首長たちの領土は再び消滅し、「中王国時代に栄えた富裕な商業階級も消え去」り、「役人に取り込まれた絶対権力者としての王と農民や職人の大衆だけで社会が構成」された。中産階級は、「征服がもたらした西アジア人の捕虜や奴隷の大量投入によって圧迫された」(小川英雄『古代オリエントの歴史』58頁)。 「ノモスの首長の地位は名誉職となり、新しい行政区画が・・設置」され、「中央集権制が強化され、二人の宰相がテーベとメンフィスにいて、それぞれ司法と治安の最高責任者となり、その下に仕える多くの長官たち(食料・財政・公共建築物などの担当者)を監督」した。 「一群の書記階級が有力者の子弟から養成され、国家公務員として高い社会的地位を保った」(小川英雄『古代オリエントの歴史』58頁)。

 この結果、「土地は王のものか神殿のもの」であり、王は地主として耕地を佳作地として貸し付け、「管理は高級管理や軍人、あるいは神官、功績のあった者に委ねられ」(小川英雄『古代オリエントの歴史』58頁)ることになった。「職人階級は国家に傭われており、同業組合に分かたれ、土地を貸与されたうえ、食料品を支給」した。「新帝国の繁栄の基礎」は「戦利品、シリア・パレスティナとの通商の発展、また、ヌビアにおける金山の開発、国営事業の収益増大など」(小川英雄『古代オリエントの歴史』59頁)であった。

 ラムセス3世 第20王朝(前1185年頃ー前1070年頃)の初代ラムセス3世(前1185年頃ー前1153年)の「活躍を最後」に、「帝国は急速におとろえる」(加藤前掲論文、416頁)。

 ラムセス3世の治世第8年に、海の民が襲来した(大城道則『古代エジプト文明』151頁)。これに対して、エジプト陸軍は、「海の民」を叩き、エジプト海軍は「海路を用いてデルタへ入ろうとした彼らの軍をまさに水際で撃退」(大城道則『古代エジプト文明』152頁)した。しかし、エジプトは、この「海の民」の東地中海沿岸への侵略で動乱を迎えることになり、エジプトにも影響を与えた。この「海の民」とは、「その一部はミケーネ文明の崩壊とともに『難民』となった人びと」で、「これらの人びとはまずドデカネス諸島に、つづいてキプロス島にたどりつき」、「その中の一派だったペリシテ人は、紀元前1175年ごろにはカナンに定住」し、「今日のパレスチナ人の祖先」になった(ロバーツ前掲書、233頁)。

 一方、カナンには、紀元前1800年頃からアブラハムというユダヤ人の族長がウルからやってきて、その中にヘブライ人(放浪する人)がいた。彼らは三代目族長イスラエルに因んでイスラエル人とよばれる(ロバーツ前掲書、235頁)。遊牧民イスラエル人は、「井戸や牧草地をめぐってしばしば先住民ともめごとを起こし」、其のうちの一つ「ヤコブの一族」が紀元前17世紀前半にエジプトに移住した(ロバーツ前掲書、236頁)。旧約聖書によると、ヤコブの息子ヨセフがファラオの宰相になる(ロバーツ前掲書、236頁)。

 この動乱時代、「エジプト人が『ヘブライ人』とよんだセム語族系の小さな集団が、それまで暮らしていたデルタ地方(下エジプト)を去り、彼らの伝承によれば『モーセにしたがって』シナイ半島に入」(ロバーツ前掲書、186頁)った。ユダヤ人(セム語系)はユダヤ教という一神教を信仰していた。

 治世晩年には「給与遅配に抗議する・・王墓造営職人たちによるストライキ」、「王の暗殺未遂事件」など(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)、「国内でも問題が噴出」し始めた。ラムセス3世は暗殺され、以後、「かつての栄光にあやかろう」としてラムセスを名乗る国王が4世から11世まで8人も輩出するが、「国力・王権の威信は低下の一途をたど」(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、202頁、ロバーツ前掲書、186頁)った。

 農民の苦境 第20王朝の書記学生の練習帳記載の詩「書記の勧め」によると、当時の農民の窮状について、農夫は一日中働き(「(朝は?)農具の手入れ」をし、「昼は農具を研ぎ」「戦士のように装具を整えて畑に向か」い、「夜は縄なう」)、耕作のために借り入れた牛がジャッカルに殺され、播く種は蛇に食われると記述している。さらに、権力による苛酷な収奪に関して、書記がヌビア人を従えて暴力的に穀物を徴収し、支払えない場合には農夫を縛って井戸に投げ込み、妻を縛り、子供には足枷をかけると記述している(笈川博一『古代エジプト』中央公論社、1990年、7−8頁)。

 また、第二十王朝末期には、「食料の値段が上昇し、人々は金を得ようとして寺院や墓を略奪し」、ある年には「非常に多くの人びとが死んだので死体を埋めるのが間に合わず、ハイエナの餌食」となり、「ハイエナの年と呼ばれた」(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、74頁[W・A・ダンドー、山本・斉藤訳、『地球を襲う飢餓』大明堂、1985年、86頁])りした。

 軍事遠征のしわ寄せが苛酷な農民収奪となったようだ。

                           H 第3中間期(前1070年ー前712年)第21−25王朝

 分裂・動乱時代 紀元前1075年ころ、「国王ラムセス11世が存命中であるにもかかわらず、テーベの大神官であったヘリホルは公然と第二十王朝に反旗をひるがえし、『われこそは王なり』と、上エジプトの独立を宣言」し、500年続いた新王国時代が終了し、「分裂と抗争」の第三中間期が始まった(吉村作治『古代エジプト講義録』下202頁)。ラムセス11世死後、彼の軍司令官スメンデスが即位し、エジプト北部を支配した。一方、エジプト南部は「アメン神権国家」が支配して、分裂国家時代に突入した(内田杉彦『古代エジプト入門』208頁)。

 こうして、エジプトは前1000年頃からメソポタミア同様に「数々の動乱」に巻き込まれ、「急速に衰退」(ロバーツ前掲書、152頁)した。前10世紀からエジプトはアッシリアの支配を受け続けたが(小川英雄『古代オリエントの歴史』93頁)、紀元前667年、「エジプト全土はアッシリアのアッシュールバニバル王に征服され、その属国となってしまった」(吉村作治『古代エジプト講義録』下212頁)。アッシリアからエジプト総督に任命されたリビア系エジプト人のプサメティコスはエジプト独立を回復して(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)、エジプト第26王朝(前664年 - 前525年)を開いた。

 エジプト農業とメソポタミア農業の岐路 第22代王朝時代、「ナイル河谷では、なお高い農業の生産性をたもちつづけていた」が、メソポタミアでは「農民たちは、泥土の堆積と耕地の二次的塩化に追われて、エウフラテスの上流かチグリスにそうザグロスの斜面に移住していか」ねばならなかった。メソポタミアの農業生産性は、「シュメール都市国家時代の1/2以下に落ち込み、中下流地方の氾濫原の多くの耕地は排水不良の沼沢地と化して放棄」された。この頃には、インダス文明はすでに壊滅していた(中島健一『河川文明の生態史観』129頁)。メソポタミ農業・インダス農業に対して、エジプト農業はまだまだ健在であったのである。


                              I 末期王朝時代(前712年ー前332年)第26−31王朝

  プサンメティコス1世 第26王朝始祖プサンメティコス1世(前664ー610年)は、当時はエジプトは「軍隊とアメン神の大神官」によって支配されていたが、軍隊指導者の所領を神殿に移転し、「ギリシァ人の傭兵隊」を登用した(小川英雄『古代オリエントの歴史』94頁)。

 彼は、「デルタ地帯の支配権を握り、約10年間続いた闘争ののちにエジプト中部の地方豪族をも平定し、上エジプトにまで勢力をのばし、自分の娘ニトクリスを『アメンの偉大なる奉仕者』という名の下にテーベの神官たちの長とし」、上エジプトを「宗教的に統治した」(小川英雄『古代オリエントの歴史』94頁)。「サイス王朝の特異な点は、ギリシァとの密接な関係にある」(小川英雄『古代オリエントの歴史』94頁)とされている。

 ネコ2世 後継者ネコ2世(前610−595年)は、「ナイル川の運河をアラビア湾に通じさせる工事を行なった」り、「フェニキア人を使って、有名なアフリカ一周の遠征隊を送った」(小川英雄『古代オリエントの歴史』94頁)りした。

 「コリント式の三段擢船を建造し、ギリシァ人の水夫を乗り込ませ」、「ギリシァの商人たちが至るところに現れた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』94頁)。

 諸王 アプリエス王(前589年頃ー570年頃)はギリシァへの「ナショナリズム的な反動」(小川英雄『古代オリエントの歴史』94ー5頁)を起こした。

 イアフメス2世(前570−526年)は、「乱れた国内を再統一し、繁栄をもたらし」、「世界最初の所得税を課し、ギリシァ人たちと商取引をして利益をあげた」(小川英雄『古代オリエントの歴史』94頁)。「ギリシァとの通商をモデル地帯に限るという政策をとり、商人たちをナウクラティス市に集中させ」、自治を認め、「12のギリシァ人の商業中心地(ミレトス、サモス島、アイギナ島など)のためにそれぞれの市場が設けられ」、「ギリシァ系の神々(アポロン、ヘラ、ゼウス)のための神殿もあった」(小川英雄『古代オリエントの歴史』95頁)。


 ペルシア支配 第26王朝は、「ギリシアの商人を優遇し、復古主義を標榜して一時余光をはなった」(加藤前掲論文、416頁)が、衰退した。前525年、第26王朝最後の王プサンメティコス3世は「ペルシァ王カンビュセスに率いられたペルシァ軍に敗れ去」り、ペルシア帝国の属州になった(立教大学デジタル論文屋形禎亮「古代エジプト」)。

 紀元前343年、ペルシァによって第30王朝が崩壊し、「古代エジプト世界はひとまず幕を閉じた」(吉村作治『古代エジプト講義録』下220頁)のであった。

                                         J プトレマイオス朝
 ヘレニズム時代(前332年ー前30年)に第32−33王朝が登場した。プトレマイオス4世から11世は、「権力欲だけは強かったが、国政に熱心でなく、先祖の築いた王朝の財産を浪費するばかり」で、「ローマに莫大な借金」をして、「地中海の島々は借金のかたに奪いとられ」(吉村作治『古代エジプト講義録』講談社、下、1994年、238頁)た。

 そして、ローマ帝国末期、ビザンチ時代、「集権的な支配権力の衰退と苛酷な重税による農村人口の減少」によって「灌排水運河を修復する政治力も経済力もなく、労働力も不足」し、「多くの地方においては畑作耕地の塩化現象がひどくなり」、さらに「異民族の侵入」で運河網が破壊され、エジプトの灌排水システムが崩壊した(中島健一『河川文明の生態史観』129頁)。外部勢力の苛酷な収奪によって、これまでエジプトを穀倉たらしめていた、高いエジプト地方農業生産力が衰退しはじめてきたのである。


                                       第四 耕地面積と人口 

 エジプトのナイル河谷は、「河川地型と季節的氾濫の水文的諸条件」では「もっとも天与の自然的条件」に恵まれていた。紀元前3200年古王朝、エジプトでは、「ほとんど支流もなく単調な凹型の河谷地型と暦のように正確な季節的氾濫のサイクルとの恵み」を受け、さほどの労苦なしに、貯留式の灌排水農法が着手された(中島健一『河川文明の生態史観』198ー9頁)。これが、エジプトに広大な耕地面積と多大な人口をもたらした。

 以後、中王朝時代まで、ナイルの氾濫水位は、ローマ帝国時代より、下エジプトで4−5m、上エジプトで6−7mほど高く、それだけ溢路の行き届く範囲が広かったので、耕地面積も「さらに広く、人口も多」(中島健一『河川文明の生態史観』124頁)くなったのである。その結果、紀元前2500年頃で約160万人、紀元前1250年頃には約300万人と言われている(内田杉彦『古代エジプト入門』岩波書店、2007年、11頁、湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、58頁[K.W.Butzer,Early Hyclrautic civilization in Egypt.A Study of Cultural ecology,Univ. of Chicago Press,Chicago,1976,P.83])。ドイツのエジプト学者エルマンは「古代エジプトの人口を約五百万人と推定」(笈川博一『古代エジプト』11頁)している。

 さらに、ヘレニズム初期(前4世紀)には700万人に増え(グロッツ。湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、55頁[C.クラーク、杉崎訳『人口増加と土地利用』75頁])、ローマ帝国時代には、エジプト耕地面積は241万ha(うち、デルタ地方140万ha、ファイユーム12万ha)に達し(中島健一『河川文明の生態史観124頁)、「帝政ローマの収奪をうけながら、250万haの耕地に700万人もの人口を養うことができた」(中島健一『河川文明の生態史観』200頁)のであった。紀元1世紀では750万人(フラヴィウス・ヨセフス。湯浅赳男『文明の人口史』55頁[M.R.Reinhard,Armengaud et J.Dupaquier,Histoire generale de la population mondiale,Montchreiten,1968,p.24])であり、湯浅氏は、この700万人が「古代、中世におけるエジプトの人口のピーク」と推定している(湯浅赳男『文明の人口史』58頁)。ローマ帝国時代のエジプトが、「莫大な量の穀物をローマに輸出しながらも、なお700万もの人口を養いえた」のは、「貯留式の灌漑農法のたかい農業生産性のたまものであった」(1中島健一『河川文明の生態史観』26頁)のである。

 以後も、ビザンチウム時代までは、「エジプトは地中海周辺地方の住民たちにとって、穀倉の役割をはたしつづけた」(中島健一『河川文明の生態史観』126頁)のであった。

 この様に、エジプト文明は、塩害で衰退したメソポタミア文明やインダス文明と違って、貯留式の灌排水農法のおかげで脱塩を持続できたのであった(中島健一『河川文明の生態史観』200頁)。しかし、現在は、1968年に完成したアスワンダムによって、「エジプトの電力需要の約二割以上」を担うことができるようになったが、「洪水がなくなることで土壌に塩分が溜まり始め」、下流地域では「洪水が毎年運んできた養分が断たれ」(笈川博一『古代エジプト』中央公論社、1990年、177頁)てしまった。


                                   
                                   


   

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